クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.9.19)
聖書 ルカ福音書 1章5〜25節 人の思いを超える神の言葉


わたしたちの生活で思いがけないことが時に起きます。悲しいこと、辛いことがあり、またうれしく、楽しいこともあります。聖書には、こんな言葉があります。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリント一2:9)。

 神さまは私たちの心に思い浮かびもしなかったことをなされるのです。
 私も神が生きて働かれることを知ったことがあります。ある時、教会で修養会を行うことにしました。テーマも決まり、その日が近づいてきました。すると一人の長老が、実家に帰るから、参加しませんと言い出したのです。修養会が終わってから帰ってもいいのにと言いましたが、聞きません。そこで私は、修養会に出席して欲しいのです、と時間がある限り祈ったことがあります。その翌日、牧師会があり出かけたのですが夕方戻ってくると、その人から電話があり、修養会に出席しますとの電話がありました。実家に帰ろうとして切符を買おう、お土産を買おうとしたのですが、ことごとくうまくいかなかったというのです。神に帰るのをやめなさいと言われたように思ったというのです。


 イエス・キリストの十字架の出来事は、人間の思いを越えた神の救いの出来事でした。そして聖書には、私たちの思いを越えた神の約束がいくつも書いてあります。今日は、思いがけない神の出来事を経験した人のことから学びたいと思います。


 ザカリア夫婦が登場します。彼らはすでに年老いています。ザカリアは祭司です。祭司は神殿で務めを果たすのが仕事です。ザカリアは妻と共に神の掟と定めを守り、神の前に正しい人で、非のうちどころがなかったと書かれています。


 ザカリア夫婦には、子供がいませんでした。子が授かることは願ったのですが、願いがかなえられませんでした。子が授からないことは、神の祝福がないこと、それ故、恥とされることでした。ですから「あの夫婦には子がいないんだ」という暗黙の人々のまなざしを受けながら生きていたと思われます。そして自分たちも、子供のいない夫婦なんだと引け目を感じていたのではないかと思います。敬虔な信者でしたが、そんなに目立つ人とも思えません。平凡な信仰者の夫婦、子供がいなくて、そのことを引け目に感じていた夫婦、そんな夫婦に神は目を留められたのです。


 ザカリアは、聖所内で香をたく務めにくじで当たりました。言い換えると、神がザカリアを選んだのです。祭司はたくさんいましたので、聖所の中での務めは、祭司の生涯で一回だけという決まりがあったようです。聖所の中での務めを終えて出てくると祭司は、人々を祝福したとあります。それは祭司にとって光栄な時だったでしょう。ザカリアは年をとって今日までその務めを果たすことがなく、光栄ある務めを果たしたという思い出もなかったのです。


 しかし今、神は彼に目を留められました。彼は聖所の中で務めを果たすのみならず、子を授かるというお告げを天使から与えられました。ザカリア夫婦は、人々の中にあって目立つ存在ではなく、むしろ子がいないことによって、神の祝福を受けられない夫婦という引け目を持っていました。しかし神の前に信仰を持って生きている彼らに神は目を留められたのです。そして大いなる恵みを与えられたのです。


 子を授かるだけではなく、その子は、イスラエルの子らを神に立ち帰らせるという偉大な働きをするのです。25節で妻のエリサベトはこう言います。

「主は今こそ、こうして私に目を留め、人々の間から、私の恥を取り去ってくださいました」。

子を授かり、神の大きな恵みを喜び感謝したことでしょう。神は私たち一人一人をも目に留めてくださっているのです。

「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)

とある通りです。私たちは、しばしば自分のことを卑下します。自分には良いところがない、誇れるものがない、劣ったところがたくさんある、などと思うのです。すると神が、自分のような者を顧みてくださるとは思えない、そう思うのです。しかし、それは人間の思いに過ぎません。


 神は一人一人を顧みてくださる方です。救い主イエスが生まれた時、羊飼いたちが生まれた子に会うという恵みを受けます。生まれた子が八日目に神殿に行きますが、その赤ん坊を救い主と知らされ、メシアに出会う恵みを与えられたのは、二人の老人です。一人は「主よ、今こそ、あなたはお言葉通り、このしもべを安らかに去らせてくださいます」と言います。死が間近に迫った老人に目を留め、神はメシアに出会う恵みを与えたのでした。神は、私たち一人一人を、取り柄のない私たち、取るに足りないと思える私たちを心に留めてくださるかたなのです。


ザカリアは天使のお告げを受けたとき、

「何によって私はそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」

と言います。


 ザカリアが天使の告げたことを信じることができなかったのは、彼らが年老いていたので子が授かると言われても、そんなことはあり得ないと考えたのかもしれません。人間の理性からすれば、信じがたいのです。旧約聖書の創世記に、アブラハムという人物が登場します。彼は神から、「あなたは大いなる国民となる」という約束を与えられておりましたが、子がありませんでした。彼が99歳の時「あなたの妻はあなたの子を産む」と神が約束するのですが、彼は信じませんでした。それどころか、そんなばかなことがあり得るかと笑ったのです。ですからザカリアが、年齢の故に、信じなかったとしても、無理もないのです。


ザカリアは、もしそれが本当なら、何かしるしを示してくださいと天使にお願いしたわけですが、天使はその不信仰をとがめました。

「時が来れば実現するわたしの言葉、つまり神の言葉を信じなかった」

ことをとがめたのです。その結果、ザカリアは口がきけなくなりました。口がきけなくなる、それがしるしとなったと言うこともできます。


 ザカリアが信じられなかったのは、年のせいだけではないと思います。神の言葉、神の約束のすばらしさの故に信じられない、そういうことがあるのではないでしょうか。神の約束、神の御業は人間の思いを遙かに超えることが多いのです。それ故に、人間は、すぐには信じられないことがあるのではないか、そう思うのです。


創世記に出てくるアブラハム、彼もまた神の約束の言葉を聞きました。彼が75歳の時。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたの名を高め、祝福の源とする」。彼には子がいません。しかし彼の子孫は大いなる国民となるというのです。
「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。地上のすべての人がアブラハムによって祝福されるというのです。途方もない神の約束、言葉です。神の約束、それは彼が生きている間には実現しない約束です。アブラハムがどれほど神の約束を信じたのか、それはわかりません。ただ子が授かるという望みは持ったことでしょう。アブラハムは、神の言葉に従って旅立ったと書かれています。


 やがて10年たちます。なかなか子を授からないので、そのことを神に告げると、神は言うのです。「空を見て星の数を数えることができるなら数えなさい。あなたの子孫はあのようになる」(創世記15章)と神は言います。するとアブラハムは信じました。神は、信じたアブラハムを義としたと聖書は書きます。正しい人とは誰か。それは神の言葉を信じる人です。しかしその直後、別な約束を与えます。「わたしはあなたにこの土地を与える」。これは見える限りの土地を与えるという意味です。

「わが神、主よ、この土地を継ぐことを何によって知ることができるでしょうか」

アブラハムは神に尋ねています。


 神は素晴らしい約束を与えるかたなのです。しかも人間の思いを超える約束。人間の思いを超える働きを神はなさるのです。人間の思いを超えるゆえに、神の約束の言葉を聞く者は、信じるか否か、問われるのです。ですからつい、それが本当かどうか、何によって知ることができるのでしょうか、といいたくなるのです。アブラハムに対する約束は実現し、彼の子孫はイスラエル民族となり、イスラエルという国家となっています。


 神の約束、それが人間の思いを超える時、それが素晴らしいものであるから、私たちは信じたいのです。自分が信じられる範囲のことだけを信じるというのでは、つまらない信仰になってしまいます。信じることによって、神の約束の実現を受け取ることができるのです。


 聖書にはそういう人が何人も登場します。そして私たちも、神の約束を受け取るように招かれているのです。でも信じて裏切られたら落胆するかもしれない。それなら期待しないほうがいいと思う人がいるかもしれません。でもそれは神を信じないのに等しいのではないですか。


 神の約束、神の救いは人間の思いを超えるので、信じがたい思いを人間は抱きます。そしてザカリアのように「何によって知ることができるのでしょうか」という言葉を口にします。実は私も口にしていた、と思いました。


 聖書には、救い主イエスが今一度この世界においでになると書かれています。いや主イエス自身が、「私はすぐに来る」と聖書の一番最後、ヨハネ黙示録で何回も語っておられます。主イエスがこの世においでになるとき、この世界に終わりが訪れるのです、最後の審判が行われ、神の国が実現すると聖書は私たちに教えるのです。


 皆さんは、どうですか。そんな先のことはわからないから、脇へ置いておいて、今、生きることを考えることが大事だと思っておられませんか。


 そんな世界の最後、世界の終末、そんなことが本当にあり得るのか。これをどうしたら心から信じることができるのか。どう話したらみんなに信じてもらえるのか。「何によって知ることができるのか」。その答えを求めて悩んでおりましたが、今日の聖書を読み、目が開け、答えを与えられたように思いました。


 神の約束、神の御業が素晴らしい故に、たとえどれほど人間の思いを超えていたとしても信じる、それが信仰なのだ、と目が開かれました。そもそも十字架につけられた主イエスという人物が私たちの救い主だということも、人間の思い浮かびもしなかった救いです。問題は、神の約束の素晴らしさに対するわたしたちの想像力なのです。この世の人も、自分の夢の実現のために生きています。神の素晴らしい約束は、夢以上のものです。


 ザカリアは、救い主イエスの到来に先立ち、メシアの活動に備える働きをする子を宿すという天使のお告げを受けました。天使は、次に若い女性のマリアに、あなたはメシアとなる人を身ごもると告げます。そして生まれたイエスは、十字架で死んでしまいます。誰の目にも明らかな救い主ではなかったのです。しかし、主イエスがもう一度この世においでになるとき、それは、すべての人が、イエスを救い主と認めるときです。そして神の裁きが行われるのです。神がすべての人の前で神となるのです。


 この世においては、この世界にある悪の現実のゆえに、神などいるものか、と神をあざける人がいますが、神はすべての悪を裁き、救いを完成するのです。終末の出来事は、よくわからないと言って、思考をストップさせるのではなく、そのすばらしさを思い描いて信じることが大事なのだ、とわたしは神様から教えられたように思います。そして今、腑に落ちたというか、心から信じることができるようになりました。


 聖書には、私たちの思いを超える神の約束がいくつも書かれており、それを信じることが、信仰生活を豊かにするのです。死者の復活による永遠の命の希望。主イエスを信じる者は新しく生まれ変わる。愛の薄い自分が愛することのできる人間に変えられる。これみな神の約束です。神の救いは人間の思いを超えるほど素晴らしいのです。これを信じる、それが信仰ではないでしょうか。


祈り

 天の父なる神様、あなたを崇めます。あなたは私たち一人一人に心を留めてくださる方であることを感謝します。あなたの顧みを信じて、あなたに祈り、あなたの導きの中を歩む者とならせてください。
 また、あなたの救いの計画は素晴らしいものです。あなたの恵みもまた私たちの思いを越えるものです。聖書が約束するあなたの恵みを心から信じ受け入れる者とならせてください。イスラエルの民が救い主を待ち望み、主イエスの到来によってその望みが実現しました。私たちもまた主イエスが再びこの世界に来られることを待ち望むことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。