holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

本日のメッセージ(2009.10.18)
聖書 詩編 23 神に導かれて生きる

 私たちの信仰生活にはいくつかの特徴があります。その特徴の一つは、神に導かれるということです。神に導かれる生活、それは神の導きを受け取る生活です。神に導かれる生活を続ける時、私たちは、老人になっても、神に導かれる老いの生活を送ることができるでしょう。神に導かれることが習慣となっていくからです。また神の導きを受け取って生きる生活は、いつでも始めることができます。


 ちなみにわたし自身は何人かの牧師との出会いを通して、神の導きを受けました。K牧師から敬虔ということを教えられ、T牧師から教会とは何かを考えることを教えられ、B牧師からディボーションを教えられ、A牧師からは信仰とは神の約束を信じることであることを教えられ、O牧師からは弟子訓練について教えられ、神様からは、日々の導きを聖書を通していただくようになりました。


1.神に導かれる人生 


 今日は詩編23を読みました。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)。

 ここで「主は羊飼い」とあります。「主」とは、神のことです。神と神を信じる人々の関係が、羊飼いと羊のイメージで描かれています。たとえを使うと、信仰をもって生きるってどういうことかが、わかりやすく説明できます。神を信じて生きるとは、羊が羊飼いについて行くようなもの、と説明することができます。


 羊飼いは草のあるところ、水のあるところを捜して羊を連れ歩きます。羊は羊飼いに導かれて生きるのです。信仰生活は神に導かれて生きることです。そんなことはわかりきっていると皆さんはおっしゃるでしょう。でも、多くの人が気づいていないことがあるように思います。あるいは教えられても忘れたり、受けとめようとしなかったことがあるように思います。神の導きに従って日々、前に進んでいるという感覚です。こういう感覚を持っておられるでしょうか。


 人生を振り返れば神に導かれてきたという感覚を持っておられる方は多いと思います。今申し上げたいのは、神の導きに従って日々、前に進んでいるという感覚です。
羊飼いは、先頭に立って羊を導きます。羊は前を向いて、羊飼いの導く方向に進んでいきます。羊飼いが左に曲がれば左に曲がり、羊飼いが止まれば止まり、羊飼いが右に行けば右に行きます。羊は、羊飼いを見上げて、その導きに従って進みます。これが神の導きを受けるということです。


 「主は羊飼い」とダビデは告白しました。ダビデにとっては、神が示す導きに従って生きる、それが神を信じることでした。「神の導きに従って日々、前に進んでいるという感覚」を私たちは身につけたいと思います。もしこの感覚がないなら、私たちは信仰というものを誤解しているかもしれません。ダビデは、信仰とは何かを羊飼いと羊というイメージで語っているからです。


 この感覚を身につけることは、難しいことではありません。聖書を読み、思い巡らし、神様が自分に何を語りかけているかを祈り求めるのです。その神の語りかけに従って生きる時、羊が羊飼いに従うように、私たちは神の導きに従って生きることができるのです。神様は、私たちの置かれた状況をご存じであり、私たちを良い方向に導こうとされます。そこで私たちは聖書を読み、思い巡らし、祈り、神の導きを求めるのです。思い巡らす時、私たちは理性を、知性を働かせるのです。


 羊飼いに導かれる羊が告白します。「わたしには何も欠けることがない」(1節)。これは、私の欲しいものは何でも神様が与えてくれるという意味ではありません。これは、必要なものは神が備えてくださるという意味です。羊飼いは羊に必要な草、水を与えるからです。イエス様も、「『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と教えておられます。神は私たちに要なものを満たしてくださる方です。神は、私たちが必要とするものよりもさらに豊かなものを私たちに与えて下さるのです。

「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(2〜3節)。

 詩編23が描くのは、牧草が豊かにある世界ではありません。羊飼いは、草や水を探し求めて苦労するのです。ですから、青草の原で草を食べるとき、羊は満腹するだけでなく、疲れも、癒されるのです。そして魂が生き返る、そういう経験をするというのです。

  • 疲労が回復し、新たな力に満たされるのです。
  • 悩みの中でうなだれている人が、力を与えられ立ち上がるのです。
  • 意欲を失った人が、希望を与えられ、気力に満ちて、新たな一歩を踏み出そうとするのです。
  • 空しさのなかにあった人が生きる意味を見出し、喜びをもって生きることができるようになります。
  • 私たちは魂が生き返る経験をするのです。

さらに「主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(3〜4節)。

 羊飼いに導かれた羊は、どのような場所を通ろうとも、災いを恐れないで生きることができるというのです。羊飼いが導く道は正しく間違いのない道で、迷うことはないのです。たとえ、崖のそばの細い道を通るにしても、それは道を誤ったのではありません。


 老いの時期には、思いがけないことが起きるものです。病気になったり、親しい人や伴侶が亡くなったり、経済的な苦労が訪れたり、途方に暮れることも起こりかねません。しかし、「あなたが共にいてくださるので、災いを恐れません」と告白して生きることができるのです。


 信仰をもって生きるとは、神の守りの中で、安全地帯を生きるということではありません。
恐れや不安、嘆き、失望、落胆と直面したとしても、なお神を信じて、希望を持って生きるということです。災いを恐れません、と告白して生きることができるのです。これは、神様を羊飼いとして、神の導きに従って歩む人の受け取る祝福です。


2.神をあなたと呼ぶ人生 


 この詩編を読むと疑問が湧きます。4節で突然、「あなた」という言葉が出てくるからです。それまでは、「主」という言葉が使われていました。つまり、4節の途中までは、ダビデが誰に語っているのかは明白ではなかったのです。


 ダビデは、詩編23を読む人に対して、語りかけていると考えることもできたのです。実際、私たちはそのように読むわけです。ダビデは、神は羊飼い、神は魂を生き返らせて下さり、神はわたしを正しい道に導く方であると、私たちに向けて語っているようにも思えるのです。


ところが、「あなたがわたしと共にいてくださる」と述べ、神様に向かって語っていたことがわかります。なぜ、最初に、あなたは羊飼いと言わず、途中から、「あなた」という言葉をダビデは用いたのか、という疑問が生まれます。皆さんはどう思いますか。


 なぜダビデは、急に「あなた」という言葉を使い始めたのか。「あなた」という言葉を使うということは、目の前に相手がいるということです。相手が目の前にいるから、「あなた」と相手に呼びかけるわけです。先週の説教で取り上げた詩編16では、ダビデは、いつも神を目の前においていると述べていました。なぜ、4節で急にダビデが「あなた」と言い始めたのか、どう思いますか。


 私たちが祈るとき、神様のことを「あなた」と呼んで祈るとしたら、それは何を意味しているのでしょうか。「あなた」という言葉を用いるとき、神様を目の前においているということです。そこには、神との関係の深まりがあります。ダビデは、どこか遠くにいる神に向かって祈るというより、神が目の前にいると考えて祈っているのです。


ダビデは、神と非常に親しくしているということです。ダビデは自分を導く神を親しく感じており、親しく神に語りかけるのです。これもまた大切な感覚です。聖書を読むと、神は繰り返し、「私はあなたと共にいる」と語っておられます。これはお決まりの言葉ではありません。真実な言葉です。ですから神が共にいるという感覚も身につけるべき大切なものです。


 この感覚を養うための方法で簡単なものがあります。瞬間の祈りをすることです。生活の中で、瞬間的に、短い祈りをするのです。仕事をしているとき、食事の用意をしているとき、喧嘩をしているとき、歩いているとき、運転をしているとき、神がそばにいることを覚えて短き祈りをするのです。その時の自分の気持ちから生まれる祈りをするのです。


 私もあるときから、神のことを「あなた」と呼ぶ感覚を大切だと思うようになりました。その時から、私は、リビングプレイズの賛美がとても、好きになりました。なぜなら、神様のことをあなたと呼んで賛美する歌がとても新鮮に思えました。神様を「あなた」と呼ぶことの喜びも感じました。礼拝で、リビングプレイズの曲を歌いますが、神様を「あなた」と呼ぶ歌もあります。「主の前に、ひざまづき、心から賛美ささげる、あなたはとこしえに、わたしの神」。


 この賛美を歌うとき、神様を「あなた」と歌うとき、どんな気持ちになりますか。神に導かれる人は、神をあなたと呼び、神と親しい関係に生きることができるのです。


3.恵みと慈しみが満ちた人生 


 5節は、神様が、わたしを客人としてもてなしてくださるというイメージで、神と信仰者の関係が述べられています。そして6節では、驚くようなことが書かれています。

「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。

 神の恵みと慈しみが私を追いかけて来るというのです。ダビデは、人生を振り返るとき、神様の恵みがいつも自分を後ろから追ってくるようだと面白い表現をします。なかなか思いつかない表現です。神の恵みが自分に注がれていたことを実感している人の言葉です。


 これは本当のことだとは思えないかも知れません。現実には多くの人が年を取りたくないと感じています。神の恵みがいつも追ってくるなら、年を取ることをいやがることはないでしょう。聖書を通して、神様は、私たちにチャレンジを与えています。わたしの導きを受け取って歩む人生がどんなものか、試してみないか、と。


 年老いた人に一つの特権があります。神様の恵みが、後を追ってきたと人々に向かって話しをすることです。そのようにして神の栄光を物語るのです。


 キリスト教の信仰生活の特徴は、神の導きを受けて生きることにあります。神の導きを受けて歩むとき、魂は生き返り、たとえ死の危険に脅かされても、「あなたが共にいる」と告白して、平安な歩みをすることができるのです。神の導きを求める習慣を身につけていくとき、老いの日々もまた、神の恵みと慈しみが豊かに与えられるものとなります。ありがたいことです。


祈り

天の父、あなたはわたしの羊飼い、私を導かれる方です。
あなたに導かれ、私には何も欠けることがないと告白できるとは何と幸いなことでしょう。
また、命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追うと告白できるとは何と幸いなことでしょう。
この幸いを信じ、この幸いを求めて信仰に生きることができますように
老いの日々にあって、神様の導きを心から感謝し、喜びをもって伝えることができますように
これは信仰に生きた人の老いの実りです。
天の父、若い人も、壮年の人も、老年の人をも導いてください。
あなたを仰ぎ、あなたの導きを受け取って日々歩むことができるように、聖書を読み祈る生活を祝福して下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。