クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


 今朝はマルコ福音書1章をディボーション。月刊誌マナの解説に、イエスの活動の備えとして神はヨハネを遣わしたように、私たちがイエスと出会う前にも、神は備えをして下さっているとあった。神様は、僕がイエスを信じるようになるために備えをして下さったのだなと思い、備えという神の恵みを確認したいと思った。

証し:イエスと出会う前の神の備え

 僕は小さい頃、祖母の死を経験し、人は死ぬものであると知った。そして死の恐れを感じた。死の恐れは、僕の頭の片隅にいつもあった。大学生になって、死の恐れを克服する「考え方」「生き方」を模索した。模索してだめなら、最後に教会に行こうと考えた。でもそれは、30歳過ぎてからと心で決めていた。どうしてそのように決めたのか、今となっては思い出せない。

 大学時代は、学園紛争の時代で精神的にはとても辛い時期だった。人間としてどうすべきか、を貧しい頭で考えるのだが、結局は、学生の討論の結論は過激な方に進んでいき、ついていけない身は、ジレンマに陥り、身を裂かれるような日々を過ごした。大学4年の夏、友人と尾瀬に行った。空は青く、山は緑でとても美しかったが、僕の心の中は、空しさによる底知れない穴がポッカリと開いていた。

 大学を卒業し、コンピュータの会社に入って忙しい日々を過ごすことになるが、心の中では、命を賭けても惜しくないやりがいのあることを見つけたいと願っていた。そのためなら、死んでもかまわないようなことに出会いたいと願っていた。そのようなものがあるのかどうか、わからないが。

 会社の先輩から見合いするからおまえもつきあわないか、と言われて、先輩の知人の家に行った。先輩も、僕も見合いをすることになるのだが、これは実らず。その知人の方から伝道集会に誘われる。伝道集会で説教を聞いた感想は、うまい話には気をつけよう、信じればうまくいくというが、信じてうまくいけば苦労しないよ、といったもので、続けて教会に行くつもりはなかった。が、その教会がその日に火事になり、それはぼやですんだのだが、何か因縁めいたものを感じて教会に通った。しばらく通い、牧師から洗礼を勧められたが、罪が何かわかりませんと言った。それ以来勧めはなく、引っ越しをきっかけに教会から遠ざかった。

 先輩のあの知人の方が別な教会に移られ、その教会の礼拝に誘われたのは、3〜4年後か。その教会で後に洗礼を受けることになる。日曜日ごとに、朝、1時間くらいかけてその教会に通った。

 サラリーマン生活をしていたが、たばこはよく吸った。コンピュータ相手の仕事で、たばこは欠かせなかった。ある日、研修会に出かけた。講演を聴いているときに、咳き込んだので、ハンカチを当てたら、血がついていて、気が動転した。休憩時間に会場を後にした。神からもらった体を傷つけていて、何か重い病気が進行しているのではないか、神に対して罪を犯したのだから、病気になったとしても仕方がないと思った。その日は、頭が真っ白だった。町を何時間かさまよい歩いた。キリストの十字架の意味が少しわかった。ある時の説教で迫りを受け洗礼を受けた。マルタとマリアの話である。

 名古屋に就職した幼友達が、東京に出張した折、僕のアパートに泊まった。駅からバス停に行くとき、「牧師になりたいという憧れがあるんだよね。でも人間関係が不得意な僕には向いていないけど」と語ったことは忘れられない。かくして神は、僕を牧師に導き、そのために命を捨てても惜しくない働きへと導かれた。

 確かに神様は、僕の人生をずっと見ておられ、導きを与えて下さったことを思う。