クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.11.15)
聖書 ヨハネ 3:16永遠の命を信じる


 ローマの哲学者でキケロという人がいます。イエスと同じ時代の人です。彼は『老年について』という本を書いています。その中で彼は、人々が老いの時期は惨めとする四つの理由について、反論を試みています。人々が惨めと感じる四つの理由とは次のものです。

老人には体力がない、することがない、何の楽しみもない、死が近い。

 老人は惨めだと思いますか? 今日は召天者を覚えて礼拝を献げています。この教会で信仰生活をし、天に召された方々を覚えます。そこで今日は永遠の命の希望について聖書から学びます。


 死は、天国への旅立ちとして、喜ばしいことを覚えたいと思います。パウロという偉大な伝道者は、「死ぬことは利益なのです」と述べています。なぜなら、世を去ってキリストと共にいることを彼は熱望しているからです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 今日は、この一節を味わいたいと思います。
ここで「独り子」とは、イエスのことです。神は、イエスという人物をこの世に誕生させました。それには目的がありました。つまり、「イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」という目的です。


 この「イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」という文章は何を意味しているのでしょうか。二つのことを意味しています。

  • まず人間は滅びに向かっていること、
  • 次にイエスを信じることによって滅びることなく、永遠の命を得ることができる、ということです。

1.永遠の命か滅びか 


 人間は滅びに向かっているというのです。人間は滅びに向かっているという深刻な事実がここで表明されているのです。


では滅びとは何か、です。

  • ある人は、人間は死に、無に帰すると考えます。これが滅びなのでしょうか。
  • 人間の肉体は、死んだら土に帰ります。これが滅びるということなのでしょうか。
  • ある人は、肉体は土に帰るが、人間の魂は永遠であると考えます。そしてその中のある人々は、魂は天国に行くと考えます。この場合、滅びは存在しません。


 聖書は、人間は死んだら無条件に天国に行くとは教えていません。聖書は、死者が行くべき場所に二種類あると告げます。一つは、永遠の命を楽しむ天国あるいは神の国と呼ばれるところです。今ひとつは、地獄と呼ばれるところです。神の裁きによって、人がどちらに行くかが決定されると聖書に書いてあります。滅びとは、この地獄と呼ばれるところを指すに違いありません。残念ながら、死後のことは確かめることはできません。


 また人は死後のことについて、何らかのことを信じています。

  • 人間は死んだら無に帰す。それだけ。来世などはない。そう信じる人もいるでしょう。
  • 人間は死んだら無条件に天国に行くと信じている人もいます。
  • 人間は生前の行いによって行く場所が異なると信じる人もいます。
  • クリスチャンは、神が最後の裁きを行い、それによって人の最終的な運命が決まると信じます。クリスチャンは、キリストのおかげで天国に行けると信じています。


 死後の世界について、どれが本当かは、わかりません。しかし、死後のことについて真相は一つです。私たちは聖書に従って、死後のことを考えます。


2.独り子イエスを信じるか否か 


 今日の聖書は、独り子、つまりイエスを信じる人は永遠の命を与えられるとあります。イエスの時代も今の時代もそうですが、残念ながらイエスを信じない人が少なくないのです。ヨハネ福音書の最初にも「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)とあります。


 聖書は、人間の心を映し出す鏡です。礼拝説教を聞き続けたり、聖書を味わいながら読んだりしていくと、私たちは自分の心が探られるのです。そして自分の心に罪があることを知るようになります。それを認めたくなくて、聖書から離れ、礼拝から離れ、神から離れる人も多いのです。しかし自分の罪を認め、神の赦しを求め、罪から離れる生き方をすることを回心と言います。イエスを信じるとは、回心をすることです。


 老いるとは、長く生きてきたことを意味します。長く生きるとは、自分の罪を知るということです。ヨハネ福音書8章にこんな話しがあります。イエスのもとに姦通の現場で捕らえられた女性が連れてこられました。十戒に姦淫をしてはならないとあります。人々はイエスを試そうとして言います。

「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。

 イエスが、「石で打ち殺しなさい」と命じれば、それは正しいかも知れませんが、イエスの評判は落ちるでしょう。石で打ち殺しなさいと言わなければ、神の戒めに背くと非難されたでしょう。どうしたらいいのか、困ってしまう場面ですが、イエスはこう言うのです。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。

 すると、年長者から始まって、一人また一人とその場を立ち去りました。老人は自分の罪を知っているのです。だから老人から順にその場を立ち去ったのです。老いるとは、自分の罪を知るということです。罪とは、犯罪というより、ああしておけばよかったとか、あの人に悪いことをしてしまったとか、悔やまれることを指します。あるいは自分で気づかずに人を傷つけることを指します。


 聖書によれば、罪とは、神を愛さず、人を愛さないことです。人を愛さなかった罪を老人は知っています。そして神は、人が罪を犯すことを悲しまれるのです。子供が間違ったことをしているのを見過ごしにする親がいるでしょうか。親は必ず注意して、正そうとするはずです。私たちはしてはいけないことをしたり、すべきことをしなかった時、心が痛みます。良心の呵責を覚えます。それは神からの信号です。あなたは罪を犯しましたという信号です。聖書を知らないと、ただ悔いるだけで、こんなことをしなければよかったで終わってしまいます。そしていつの間にか忘れてしまいます。


 聖書は、罪を悔い改め、イエスを信じて生きていくこと、永遠の命を受け取って生きることを教えています。神は、私たちが罪から離れることを願っておられるのです。神は、イエスをこの世に送り、罪から離れ、永遠の命を受けなさいとメッセージを送り続けているのです。


3.私たちに対する神の愛を認めるかどうか


 私たちは大きな愛を示すこともあれば小さな愛を示すこともあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに」とあります。神は、私たちに対して、大きな愛を示されました。イエスは、神がこの世に遣わした神の子です。神はご自分の愛する子を人間に与えたのです。しかもその愛する子は十字架で死ぬのです。神は愛するわが子の命を犠牲にするほどに人間を愛したのです。命を犠牲にすることほど大きな愛はありません。神は、神の子を犠牲にしてまで、私たちを罪から救おうとされたのです。ここに神の大きな愛が示されていると聖書は語るのです。


 聖書の創世記にアブラハムという人物が登場します。アブラハムは年老いてから、息子を与えられました。たった一人の息子、愛する息子、跡取りの息子です。神はアブラハムに、大事な息子をいけにえとして献げなさいと命じるのです。ひどい命令といえばひどい命令です。アブラハムは神の命令に従い、息子をいけにえとして献げようとします。いけにえとして献げる瞬間、神は、「あなたが本当に神を畏れ敬う者であることがわかった」と言います。そして子供を献げることを止めさせます。神がわが子を十字架で死なせた時、神は、私たちに対して大きな愛を示したのです。そこには神の招きがあります。それは、人間が闇の中を歩むのではなく、光の中を歩んで欲しいという神の切なる願いでした。


 神を愛さず、人を愛さない人生は、空しい人生なのです。破れのある人生、つまらない人生、憂さ晴らしを必要とする人生なのです。それは互いに傷つけあって、悲しむ人生なのです。神は人間が惨めな人生を送っていくことから救いたいのです。何としても救いたい、そのために御子をこの世に送られたのです。


 神なんか要らないと言って生きている人は、滅びに向かって生きているのです。神のいない世界に生きること、おそらく、それが滅びなのです。また神が独り子を送ったということは、どんなにひどい罪人でも救うとの神の意志であり、招きです。


 年を取った人は、周囲の人々が罪を犯しているのを見ることが多いでしょう。主よ、憐れんで下さいと祈らざるを得なくなります。そして神の憐れみによって赦しと永遠の命を与えられていることが喜びであり、感謝となります。そして神の国を待ち望むようになります。恵みです。神の国を仰ぎ見つつ、歩める、それが老いの幸いです。老いた人には体力はないかも知れません。しかし、することはあるのです。イエス・キリストによる救いを思い巡らし、神の国を思い巡らす楽しみは十分あります。死後、神のいない世界で生きる、それが滅びだと私は思っています。今日は信仰を得て、神のもとに旅立った人を覚えています。神を信じ、永遠の命を信じて生涯を送った人々の信仰の歩みを思い、励まされたいと思います。


祈り

あなたの御名を崇めます。私たちをあなたのもとに引き寄せようとする大きな愛が現れました。あなたはイエス・キリストをこの世に送り、「あなたを愛している」と私たちに宣言されました。あなたの愛を受けとめることができますように。あなたへの信仰に生きることができますように。老いた人には、することがない、楽しみもないと言う人もいますが、イエス・キリストによる救いを思い巡らし、また世界を造り、イスラエルの歴史を通して働かれたあなたのみ業を思い巡らし、私たちもまた約束の地である天国を目指してこの世の旅をしていることを思い巡らし、神の国の希望、永遠の命を希望を確かなものとできるように、私たちを憐れみ、導いて下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。