本日のメッセージ(2010.1.10)
聖書 マルコ 4:26〜32 成長する喜び
先週、初週祈祷会が三日にわたって行われました。最終日、Aさんが奨励をしてくださいました。Aさんは、金色の色紙を貼った箱を持ってこられ、そこには「A式アナログ信仰計測計」と書かれていました。信仰がどれほど成長しているのかを計る機械だというのです。どんな仕掛けになっているのか、興味津々です。
何人かの方がそれを使って信仰の成長度を測定しました。目盛りは、1〜9です。0と10はありません。私たちの信仰は、全く成長していないということはないし、完璧に成長したということもないので、0と10はないわけです。笑いながら楽しい時を過ごしました。その後、奨励がなされ、共に祈ったことは言うまでもありません。
私たちには成長についての憧れがあるのではないでしょうか。テレビのドラマでも主人公が成長する様を描くドラマがあります。NHKの朝のドラマの「ちりとてちん」がそうでした。主人公の和田清美は高校を卒業したあと、自分が何をしたらよいのかわからないでいました。ただ母親のようにはなりたくなかったのです。彼女の母は、家族のことを心配し、家族のためにだけ生きていました。清美の目には、母は自分というものを持たない人に見えたのです。
「母ちゃんみたいにはなりたくない」
と叫びます。清美自身は、自分が何になりたいのか、まだわかっていないのですが、何かになりたい、何者かになって、自分はこうなんだと誇りうる者になりたかったのです。そして大阪に行きます。大阪に行けば何かが見つかるだろうと思って。偶然に落語家の家に導かれ、その家で世話になり、やがて彼女は落語家になると決心し、修行をし、落語家となり、やがて結婚し、子供を産むのです。その時彼女は、落語家を辞め、母となり、妻となり、母親のように家族のために生きることを決心します。
「母ちゃんみたいになりたくない」と行って家を出た彼女ですが、母ちゃんのようになると決心したところで物語は終わります。このドラマは、彼女の成長物語です。主人公の成長というのはドラマの有力なテーマです。それは、成長に対する憧れが我々の中にあるからだと思います。主人公の気持ちになり、主人公の成長の喜びを我がこととして喜ぶことができるところにドラマの面白さもあるのではないかと思います。
成長は喜びです。そして私たちは自分の成長をどこかで願っています。
- 信仰に生きる喜びのためにも、
- イエス・キリストを通して神が与えてくださる救いの恵みを十分に受け取って生きるためにも、
成長ということを考えたいと思います。
昔、信仰の成長ということを考えた時、成長を計る一つの基準を思いつきました。この聖書の言葉は本当だ、自分はこの聖書の言葉を頼りにする、この言葉に立って生きていく、というような聖書の言葉をいくつ持っているか、その数が信仰の成長を計る基準のように思ったことがあります。信仰生活の長い人は、自分にとって大切なみ言葉があると思います。苦しみや試練の中で、この聖書の言葉は真理で、自分は大切に握りしめているという言葉をもっておられると思います。そういう御言葉に支えられて私たちは生きています。このようなみ言葉を持つことは、信仰の成長であり、私たちはそれぞれに成長をしていることは確かです。
ところが私たちは、成長という言葉を聞くことが少なく、成長という言葉を使いませんでした。どういうわけか、信仰者になったら、一足飛びに一人前の信仰者になるという思いこみを無意識のうちにもってしまいました。それはおそらく、周囲の人々が私たちのことを一人前の信仰者と見ていたからだと思います。だから一人前の信仰者として振る舞わなければならないと考えてしまったのです。また私たちも他の人のことを一人前と見たのです。私たちの心には立派に振る舞わなければならないという思いが強くあります。
しかし、現実には一人前の信仰者として振る舞えない自分がいるので、信仰者である自分を喜ぶことができません。一人前の信仰者であるべきだという思いは、信仰が成長しても、まだだめだ、不十分だという意識となり、またあまり成長していないという思いは、引け目となり、自分は貧しい信仰者だという思いにもなりました。そこで信仰が成長するということを考えます。
「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリピ3:16)。
この言葉は、私たちの信仰は成長する、と告げています。そして成長の段階に応じて進んでいけばよいと教えています。信仰は成長するものなのです。信仰は成長するということを考えることには益があります。喜びという利益です。
信仰者として生きるとは、一人前の信仰者を目指して成長していくことです。だから、
- 自分の信仰は未熟だと言って、引け目に思う必要もないし、自分がだめな信仰者だと思う必要もありません。成長途上の人に未熟な面があるのは自然であるからです。赤ん坊に向かって「おまえ歩けないのか。変な人間」などという人はいません。
- あるいは自分としてはそれなりに成長したと思うが、まだ一人前になっていないと考え、もっと上を目指さなければならない、もっと上を目指さなければならないと、と考える必要もありません。
私たちは、成長を目指し、成長したことを喜び、信仰者として生きていることを喜べばよいのです。そしてまた成長を目指せばよいのです。
イエスは、成長する種のたとえを話されました。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:26以下)。
種はなぜ成長するのでしょうか。種には命があり、太陽の恵み、雨の恵み、土の恵みを受けて芽を出し、葉を出し、成長し実を結びます。神様が、命あるものは成長するように造られたのです。また「からし種」のたとえでは、からしの種は、ほかのどんな種よりも小さいのですが、成長して、思いがけないほどの大きさになるとあり、成長の結果は、思いがけないもの、とても大きなものであると教えられます。この二つのたとえは、神の国の成長のたとえですが、信仰の成長にも当てはまると思います。命あるものは成長します。人間も母の胎から生まれ、成長します。
では信仰はどうでしょうか。もしかして、自分は信仰の成長なんかできないんだと思う人がいるかもしれません。何年も信仰生活を続けてきたが、そんなに成長していない。そんな思いから、自分には成長は無理と思うかもしれません。しかし、私たちは自分の努力で成長するのではありません。自分の努力が成長をもたらすわけではありません。
「大切なのは、成長させてくださる神です」(コリント一3:7)。
成長なんかできないという疑い、不信仰は捨てましょう。神様が成長させてくださると信じましょう。成長は神のみ業であり、神の恵みです。命あるものは必ず成長するのです。洗礼を受けて信仰者になった私たちは、神の子になりました。神の子として成長できるのです。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:20)。
ここで私たちは、イエス・キリストが十字架で死に、三日目に復活された出来事を思い起こさなければなりません。キリストの十字架の死と復活の出来事は、私たちの出来事でもあるのです。イエス・キリストを信じた者は、キリストに結ばれます。キリストに結ばれた人は、キリストと共に死に、キリストと共に生きると聖書に書かれています。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマ6:4〜5)。
この聖書の意味は、キリストを信じる以前の古い私、罪を犯してしまう私は死に、神を信じ、神のみ心を行う新しい私が生きるようになったというのです。私たちは神の子となるのです。私たちはこのことをまず信じるのです。現実にはそうなっていないように見えても信じるのです。すると段々そうなっていきます。キリストによる救いの恵みとは、罪の赦しの恵みに限定されません。
- 私たちが神の子供になり、罪に縛られないで生きることができるという恵みです。
- 罪から解放されて生きることができるという恵みです。
- 信仰の成長とは、神の子供としての成長です。
- 成長する時、私たちを縛っていた罪から自由にされ、神を愛し、人を愛することができるようになります。
ですから成長は喜びなのです。
「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4:13)。
私たちの成長の目標は、キリストです。そこまで成長する時、私たちは成熟したと呼ばれますこの世にあっては、私たちはキリストに近づくことはできますが、キリストまで成長することはできません。キリストが再臨し、世の終わりが来ると、私たちは復活し、私たちはキリストに似た者となり、成熟した人間とされ、神の国に迎えられることになります。ここに救いが完成します。
またこの世で各自の信仰がどこまで成長するのかは、人によって違うでしょう。キリストに向かっての到達度は人によって違います。人と比較する必要はありません。人それぞれ、到達したところ、そこに到達したことを喜び、さらに少しでも成長を目指し進む、それが信仰の歩みです。
この世にあっては、ここまで成長しなければならない、というような目標はありません。信仰者の歩みは成長をする歩みであり、成長を続けることが大事なのであって、どこまで到達したかが大事なのではありません。
最後に繰り返しになりますが、成長させてくださるのは神様です。このことがとても大切です。これは、人間の努力はいらないということではありません。成長したいという思いを行動で表す必要があります。その思いを受け入れ、神が成長させてくださいます。
そして私たちは、自分の信仰は成長したな、とふと気づきます。その時、神様が成長させてくださったと実感できるということですね。神様がこのわたしを顧み、信仰の成長を導いてくださったと感じることができ、神様が身近な存在になり、喜びが湧いてくるのです。だから信仰の成長を求めて生きている人には、心にいつも喜びがあるのです。神様が共にいてくださるという思いが喜びをもたらすのです。自分の成長を喜び、成長させてくださる神をたたえるものになりましょう。そしてそれは、信仰者であれば、誰でもできることなのです。祈りましょう。
私たちは子供の成長を楽しみ、喜びとします。そのようにあなたも私たちの成長を喜んでくださると信じます。あなたは私たちを神の子として新しく生まれさせ、私たちの成長を楽しみにされています。
私たちもまた自分の成長を喜ぶことができますように。何よりも成長させてくださるのは神様です。神様が私を成長させてくださったと気づく時、喜びが私たちの心を満たします。すべての信仰者が成長の喜びを味わうことができますように助け導いてください。あなたを身近に感じ、あなたを賛美することができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。