クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.1.31)
聖書 ヨハネ一4:7〜11 自分の限界に気づく(2)


「自分の無力さ、限界に気づいた。すべてを自分でしなければならない、わたしが頑張れば何とかなるという考えが、自分を行き詰まらせていたことを知った」。

 この気づきは、成長への入り口です。私たちは全能ではないし、スーパーマンでもないので、無力さ、限界を持つ者です。だから、すべてを自分でしなければならない、自分が頑張れば何とかなるという考えで生きていくと、うまくいく場合もあるし、行き詰まることもあります。そして生活の大切な場面で私たちは行き詰まりを経験します。


 自分の無力さ、限界に気づく、このことは「霊的成長」のために大切なことだと考えています。しかし私は皆さんに、自分の無力さ、限界に気づかなければなりません、とは語るつもりはありません。そうではなくて、自分の無力さ、限界に気づいたなら、すべてを自分でしなければならない、自分が頑張れば何とかなるという考えから解放されて、行き詰まることから自由にされて生きることができることを伝えたいと考えています。だから、無力さや限界を素直に受け入れてもよいことをお伝えしたいと思います。


 霊的成長という言葉を使いました。神を愛すること、人を愛することにおいて、成長することを「霊的成長」と呼びたいと考えています。イエスは、神の戒めを要約すれば、神を愛し、人を愛することだと教えられました。ですから霊的成長を遂げるなら、私たちは豊かな人間、聖書の言葉を使うなら、「成熟した人」(エフェソ4:13)になります。それは同時に、自由な人です。今回は「行き詰まり」から解放されますから。

 私たちは、自分の無力さや限界を明らかにしたら、人は自分のことを軽蔑し、嫌い、拒否するのではないか、という恐れがあるので、自分の無力さを打ち明けることはなかなかしません。しかし、無力さ、限界を持つ私たちを愛し、受け入れ、顧みてくださる神がおられるのです。そのことを確認しましょう。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。

 神が、御子、イエス・キリストを罪を償ういけにえとされた、ここに私たちに対する神の愛があるというのです。この意味を考えるために、イスラエル民族と神との関係を考える必要があります。旧約聖書を読むと、イスラエル民族は神の民として選ばれたと書かれています。神はイスラエル民族を選び、契約を結ばれました。つまり神は、イスラエルの民を祝福すると約束し、イスラエルの民は、神の戒めを守ると約束したのです。神が人間と契約を結ぶのです。契約を結ぶ神、それが聖書の告げる神です。神は人間に約束をする神なのです。そして人間も神に対して戒めを守るというのです。


 旧約聖書では、神と神の民の関係は、夫婦関係にたとえられています。神の民として生きることは、神との深いつながりのもとに生きることを意味しています。苦しい時の神頼みのように、自分の必要な時だけ神との関わりを持つというのは、聖書が伝える神信仰ではありません。夫婦のように、神との密接なつながりをもって生きる、それが聖書における神信仰です。


 神の民イスラエルは神の戒めを守りますと約束しましたから、神の戒めを破ったり、逆らったりしたら、それは神との関係を壊すことになります。そうなったらどうするか、です。夫婦の間でも、相手を傷つけるようなことを言えば、怒りが生じ、夫婦関係にひびが入ります。その時どうするか、です。あやまります。人が神の戒めを破り、神に不愉快な思い、怒りを与えた時には、罪の償いのいけにえを献げなさいと神は命じます。そうすれば赦し、神との関係、交わりを回復すると神は約束します。イスラエルの民が神の戒めを破っても、いけにえを献げて赦しを求めれば、神と和解ができる、神ともとのような関係に戻ることができるというわけです。


 そこでイエス・キリストの登場です。イエス・キリストは十字架で処刑されて死にました。私たちはその十字架の死は、私たちの罪を償う死、イエス・キリストご自身は、罪を償うためのいけにえであったと信じます。

「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。

 神は罪を犯す人間を赦し、受け入れる方なのです。私たちが誰かを友達にしたいと思った時、どんな人なら友達にしてもいいと思いますか。きっとこんな人、あんな人という条件がつくと思います。それから外れる人とは友達になりたくない、友達として受け入れることはしないと思います。しかし神は、ご自分に背くような者をも愛し、受け入れる方なのです。


 イエスの弟子のペトロは、イエスのためなら命を捨てますと宣言しながら、イエスを見捨ててしまいました。このような卑劣な罪を犯すペトロをイエスは赦し、愛し、顧みられるのです。キリストを世界中の人々に知らせるために選ばれたパウロという人がいます。彼は選ばれる直前まで、実は、クリスチャンを迫害していた人です。神から見れば、神に敵対する罪人です。でも神は、彼を赦し受け入れ、使命を与えられるのです。イエス・キリストの十字架は、神がどのような人をも愛し、受け入れ、顧みてくださることを示しているのです。

 この神の愛には特徴があります。それは相手を無条件で愛するということです。私たち人間は、相手の中に愛すべき価値を見いだす時、その人を愛します。相手を無条件に愛するなんて、できません。神は人間の中に愛する価値があるかないかを見ることをせず、愛されるのです。ここに神の愛と人間の愛の違いがあります。私たちは、神に愛される者なろうと努力をしますが、この努力は無意味な努力です。神様は、愛する価値のある者を愛そうとは考えないからです。キリストの十字架は、神の愛が無条件であることを教えているのです。人間は、力のない者、弱い者は役に立たないと言って、評価せず、受け入れないことがあります。しかし神は違うのです。

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(コリント一1:27)。

 神は力のある者に恥をかかせるために無力な者を選び、用いる方でもあるのです。驚きです。ですから私たちは、自分の無力さ、限界を安心して認め、受け入れることができます。たとい人が私たちを見捨てようとも、軽蔑しようとも私たちは気にしないのです。神がおられるからです。私たちを顧み、助けてくださる神がおられるからです。

 さらに、無力さ、限界を持つ私たちを受け入れてくれる兄弟姉妹、つまり信仰の仲間がいるのです。

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(4:11)。

 神が無条件に愛する愛をもって愛されたので、私たち教会につながる者たちも、無条件に愛する愛をもって互いに愛し合いましょうと命じられています。逆に言えば、私たちは愛されるのです。無力さ、限界があっても私たちは受け入れられ、愛されるのです。「互いに愛し合いましょう」という教えは、裏を返せば、「互いに愛され合いましょう」との命令です。愛されるとは、自分の弱さを外に出すということです。


 以前奉仕した教会で、「他の人のために祈りますが、私のためには祈ってもらう必要はありません」という人がいて、驚いたことがあります。それは祈ってもらう、つまり愛されることを拒んでいることになります。だから、私たちは、教会の中では、無力さや限界を隠さないですむのです。自分の弱さを語る時、周囲の人は、私たちのために祈り、また支えとなってくれるからです。もし私たちが自分の無力さ、限界を語って、私たちをバカにする人が教会いたら、その人は、神を知らない人です。

「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:8)。

 その人は、神を信じているつもりかもしれませんが、神を知らない人ですから、気にしなくていいのです。


 また私たちが自分の弱さを語ることにためらいを感じる理由は、私たちの心の中に、弱さを否定し、弱さを持つ人を軽んじる思いがあるからです。だから他の人もそうだと考えて、正直に弱さを語ることを恐れるのですが、そういう恐れを捨てて、自由になりましょう。無力さを告白する人の良き理解者となり、祈り、支える人になりましょう。


教会には、無力で限界のある私たちを、受け入れ、支えてくれる人がいます。

  • だから、愛されることも大切なのです。
  • 自分も無力さ、限界を明らかにして、他の人から愛され、受け入れられ、支えてもらうことが大事です。
  • そしてその逆も勿論、大事です。
  • それが互いに愛し合うということです。


 信仰の友に支えられ、励まされ、さらに神の力にすがる時、私たちは無敵です。行き詰まりから解放されて前進できるのです。喜びをもって精一杯努力をして、物事に取り組むことができるのです。感謝なことです。

 そもそも人間は生まれた時、無力そのものです。一人で生きていくことはできません。しかし親から愛され、助けられ育っていきます。人は年老いて、力が弱り、家族に、周囲の人に支えられ助けられて生きていきます。人は自分の弱さを認め、周りの人から助けられて生きるように神様がデザインされているのです。

  • 私たちは弱さを認める時、神につながり、人とつながっていきます。
  • 自分が頑張れば何とかなると考える人は、神も人も必要としません。自分の力で生きていくからです。その人は孤立した人です。自分ができる人間なんだと誇ることができたとしても、寂しいです。


 私たちが本当に神につながって行くために、本当に人と人とがつながっていくために、やはり自分は弱く、限界のある者で、本当に神の助けと人の助けを必要としていることを受けとめていくことはとても大切なことです。祈ります

祈り

 天の父、あなたの愛の中で生かされていることを感謝し、あなたをたたえます。私たちは人間であり、弱さ、限界を持つ者です。そのことは否定されるべきことではなく、受け入れるべき事であると知り感謝します。自分の弱さや限界は隠そうとしないでよい、なんと自由なことでしょう。
 私たちは弱いかもしれない、しかし、あなたがおられ、信仰の仲間、兄弟姉妹がいて、支え、励まし、力を与えられます。だからこそ、精一杯の努力ができることをうれしく思います。弱さを認めるから、神につながり、人につながり、神を愛し、人を愛し、神に愛され、人に愛されることができます。本当に幸いです。
 天の父、自分の弱さ、限界に落胆している人がいたら、励ましてください。すべてのことを自分でしなければ、自分が頑張れば何とかなると考えている人がいたら、そんなに力まないで、神と人につながり、助けを受けながら生きる道があることを伝えてください。そこに自由があることをあなたが教えてください。
 互いに愛し合う教会、神の家族を築かせてください。イエス・キリストの御名により祈ります。