クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.2.21)
聖書 ローマ 3:12〜26 自分を愛する事を学ぶ(1)


 今、礼拝説教では、信仰者としての成長をテーマとして、聖書に聞いています。信仰者の成長、霊的成長は、私たちがより自由な人間にされていくことです。自分を愛する事を学ぶことによって得られる自由、それは自分を喜ぶ自由です。

  • 自分を駄目な人間だと思うことからの解放、
  • 自分を卑下することからの自由、
  • 自分の無力、限界に落胆することからの自由です。
  • 行き詰まりの中にあっても、なお望みをもって事態に直面していく自由です。それは自分を愛し、喜ぶことから生じます。


 霊的成長の第三のポイントは、こうです。「自分の素晴らしさを知る、自分を愛する事を学ぶ、自分の様々な欠点や限界を知りながら、よいものがすべて失われたわけではないと知る」。

 皆さんは、自分のことが好きですか。嫌いですか。今のありのままの自分を喜べますか。自分はこれでいいんだ、と心から言えますか。自分の存在価値を認めることができるでしょうか。自分はもっとああなればいいのに、こうなればいいのにと思っていませんか。今日は、自分を愛することを学ぶ、というテーマです。


 自分を愛する、ということで皆さんは何を思いますか。自分を愛する、それはいいことなの、と疑問に思う人もいるかもしれません。自分を愛する、それは自己中心ということではないか、と考える人もいるかもしれません。しかし自己中心というのは、自分の損得を考え、他人のことは気にせず、自分が得することだけを考え行動することです。自分を愛することと同じではありません。自己中心は、自分の利益だけを愛するのであって、自分を愛することとは違います。


エスは、隣人愛の教えを説きました。それは

「自分のように隣人を愛しなさい」(マタイ22:39)

でした。これは、自分を愛するように、隣人を愛しなさい、との意味です。ですから私たちは、自分を愛することを学ばないと隣人を愛することができないのです。それゆえ、自分を愛することは必要なことなのです。自分を愛することがわからないと、隣人を愛することがわかりません。わからないと実践できません。自分を愛することを学ぶことの大切さをわかっていただけたでしょうか。

 自分を愛することを学ぶと言いましたが、ある人は、

  • 自分の性格が嫌だ、という人がいるかもしれません。
  • 自分の姿、外見が、気に入らないという人がいるかもしれません。
  • あるいは、信仰者になって、罪を犯す自分に自己嫌悪を感じるという人もいるかもしれません。
  • もし自分が背が高ければ、腕力が強ければ、話すのが上手なら、人と関わることが苦手でないならと思い、現実の自分がいやだと思う人もいるかもしれません。

 それで、そういう自分を愛するなんて、とんでもない、できっこないと考えるかもしれません。さらに私たちには、無力さ、限界があります。自分の無力さや限界に気づいて喜ぶ人はいません。ましてそんな自分を愛するなんて、とんでもないことのように思えます。多くの人は、ありのままの自分を受け入れることができません。自分は、これでいいんだと思えないのです。


 死の恐怖に囚われ、死の前に無力であった自分を、私は、それで良いんだとは思いませんでした。死の恐れ、空しさに捕らわれた自分、そんな自分は嫌でした。でもどうしたら、別な自分になれるかはわかりませんでした。ですから、自分をごまかし、楽しみを求めて日々過ごしました。


 自分は、ありのままの自分でいいのだと認めることのできない人は、何かにすがり、何かに夢中になって、そういう自分で良いのだと思うようにします。現実の自分を見ないようにします。あるいは、自分と他人を比較して、あの人より自分はましだと言って、自分を受け入れようとします。


 自分を愛するとは、自分を受け入れること、自分を大切な存在だと思うこと、自分自身を喜ぶことです。無力さ、限界のある自分を受け入れ、大切な存在だと思い、喜ぶことです。それは、簡単なことには見えません。しかし、できるのです。

 自分の無力さ、限界に気づいた時、私たちは神に心を向けることを学びました。神とは、あなたを愛しておられるかたのことだと聖書は告げています。神は、ありのままのあなたを愛していると聖書は告げます。あなたは、あなたのありのままを悲観しなくてよい、と神はおっしゃるのです。今日読んだ聖書は、聖書の中でも大切な箇所です。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(22節)。

 これは、イエス・キリストを信じる人は皆、神の前に義とされる、つまり神の目には正しい人間であるという意味です。「そこには何の差別もありません」とあり、善人であろうと悪人であろうと、誰であろうと、イエス・キリストを信じる人は神の目に正しい人間であるという意味です。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25節)。

 キリストが人間の罪を償ういけにえとなってくださったので、私たちの罪は償われ、私たちはもはや罪を咎められないものとされました。神は、私たちを正しい者と見てくださるのです。神の目に正しい人間であれば、神からの罰とか、バチを恐れる必要はないし、神の顧みを豊かに受けることができるし、祝福を受けることができるし、天国に迎えられるのです。イエス・キリストを信じるなら、あなたはありのままのあなたで、神に愛され、罪赦され、神の目に正しい人間なのです。


私たちは、正しい行動をして正しい人間になろうとします。正しい人間になれば、神の顧みを受け、祝福を受けることができると考えがちです。残念ながら神の祝福を要求できるほど正しい人間に私たちはなれません。驚くことに、私たちが正しい行いをしているかどうかに関係なく、イエス・キリストを信じる人が神の前に正しい人なのだと聖書は告げます。


 私たちは、自分の目で、自分の基準で自分を見て、自分の問題点を数え上げて、ありのままの自分は、喜んで受け入れることができるような人間ではないと考えてしまいます。そして自分の存在を喜ぶことができず、自分を受け入れることができず、劣等感を持ったり、卑下したりします。しかし、イエス・キリストを信じる人は、神に喜ばれる正しい人なのです。

 ここできちんと弁えたいことは、神の目で、神の視点で見るということです。相手の視点でものを見ることには、私たちは慣れています。だから信仰にも応用するのです。


 交際している人から「あなたを愛しています」「あなたが好きです」と言われれば、私たちは喜びます。わたしにはこんな点があり、愛してもらえるはずがないとか、好きになってもらえるはずがない、などとは言いません。自分は愛してもらえる存在なんだと思い、喜ぶわけです。人からほめてもらえばうれしいです。逆に、「あなたってダメね」という言葉は、私たちをとても傷つけます。「そんなことはない、私はこうだ」と強がっても、人が私たちのことを否定する言葉は、私たちの心を傷つけます。


 信仰を持つ者は、神が私たちについて語る言葉を受けとめます。神が私たちを愛していると言われるのなら、それを受け入れます。私たちは自分に関しては、神がどう言われるかを心に留めるのです。神がどのように私たちを見ているのかを知ることは大切なことです。

「私のためにあなたは価高く貴く、私はあなたを愛する」(イザヤ43:4)。

 神は私たちのことを宝石のように高価な貴い存在だと言ってくださるのです。私たちが自分のことをどう思っても、神の目に私たちは高価な貴い存在なのです。私たちは、断固として、神が私たちについて言われることを信じたいのです。


 イエス・キリストを信じる者は神の子です。神は私たちを子と呼び、私たちに、ご自分のことを父と呼び、祈ることを赦してくださいます。人々があなたのことをどう思おうと、あなたが自分のことをどう思おうと、神があなたのことを愛していると言われるなら、神に愛されていると受けとめるのです。神が、「あなたは私の子」と言ってくださるなら、それを信じるのです。


 神の目で、自分を見ていく時、神が私のことを喜んで愛してくださるなら、私は神に愛され、神に喜ばれる存在なんだ、うれしいなあと感じていいのです。そうやって、私たちは自分のことを受け入れることができるようになります。

  • ありのままの自分を受け入れ、
  • ありのままの自分を大切な存在だと思い、
  • ありのままの自分を喜ぶ、

それが自分を愛するということです。


 以前、自分なんて欠点も多いし、喜べるような存在ではないと思っていましたし、そのことを妻に話したら、「あなたにはあなたの良い所があるのに」と言ってくれました。それで、どんな所が良いのか教えて欲しいと言ったら、メモに書いてくれました。「夫の賜物」として6つの点が書いてありました。<冷静、穏やか、整理上手、忍耐強い、寛容、無邪気さ>。自分の目で見る自分と妻の見る自分とは違うんだと思いました。


 神が私たちのことを愛していると言い、あなたは価高く貴い、と言われるなら、私たちは、神の評価を受け入れ、自分という存在を受け入れ、喜びたいのです。それには戦いがあります。自分を否定的に考えるように働きかける力があるからです。


 私自身、牧師としての自分の限界を感じて落胆する心があります。しかしそのたびごとに、そういう自分を神は牧師に召してくださっているんだと神を仰ぐようにしています。段々と自分の限界を認めつつ、喜んで牧師として働けるようになってきています。自分を大切な存在と考えることは重要なことです。

 人が変えられるのは、自分を愛してくださる神と出会った時です。私たちが生まれ変わるのは、受け入れがたい自分を受け入れた時です。自分を貴いものとして大切にする時です。自分を愛することができる時、喜びが湧いて、私たちは変えられるのです。自由にされ、自分を喜ぶのです。
限界や無力さがある、欠点もある、罪も犯す、しかし神に愛されているゆえに、この自分を愛し、喜ぶのです。その時、あなたは神の子として、新しい歩みが始まるでしょう。自分自身を低く評価する心から自由にされるでしょう。


祈り

 天の父、「わたしの目にあなたは価高く貴い」とおっしゃってくださることを感謝します。また、私たちを罪から救うために、神の子イエス・キリストが死んでくださいました。神の子を犠牲にしてまで私たちを救おうとする神様が、私たちのことを大切な存在と思ってくださることを感謝します。
 自分には、欠点もあり、無力さや限界があり、もっとこうだったら、ああだったらと思うことがいろいろあります。しかし、そのような私たちのことを「大切な君」と読んでくださることを感謝します。
 私たちが自分を愛し、自分が大切な存在なのだと喜ぶことができるようにしてください。自分のことを低く評価する思いから解放されて、自由な気持ちで、神様に向き合い、隣人に向き合うことができるように助けてください。私たちを憐れみ、あなたの愛を信じ、受け入れることができるようにしてください。イエス・キリストの御名により祈ります。