クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.3.7)
聖書 マタイ 25:14〜30 人との比較から解放される(1)

 私たちはこの世に生まれて以来、人との比較にさらされながら生きてきました。親や周囲の人から誰かと比較され、そして何か言われる、そういうことの繰り返しの中で生きてきました。この社会が、人間を比較する社会です。


 学校の運動会でたとえば100mの徒競走で順位がつきます。足の早い生徒は結果を誇らしく思うでしょうが、足の遅い生徒はみじめな気持ちになります。ビリになるとわかっていて走る、これは屈辱なことです。良い生徒と悪い生徒がいます。自分の点数を親に告げれば、何か言われます。「お兄ちゃんのように頑張りなさい」。「良い点を取っても、100点採れるはずだ」「もっと良い点を取りなさいとか」言われる。点が悪ければ「情けないとか」言われる。高校受験、大学受験、成績でどこを受験するかが決まります。自分は成績がよくないから、受験する学校の名前を人に言いたくない、言えない、引け目を感じることがあります。会社に入ったら、誰が仕事ができるのか、比較の目で見られます。出世競争があり、同期の人に先を越されると悔しい気持ちになる。母親が子どもに「お父さんのようになってはだめよ」といったりする。

 人と比較されてきた私たちの心は傷つき、自分はこれでいいんだと自分の価値を確かめたくて、自分でも自分と人を比較するようになりました。ある人たちは、優越感を感じて自分の価値を認めることができ、心地よく生きることができるかもしれません。あの人たちより自分の生活はましなので自分は幸福だと思ったり、苦しみの中で、あの人たちの苦しさを見れば自分の苦しみはたいしたことがないと言って、自分の苦しみを受け入れ、自分を慰めたりします。


 自分と他の人を比較することで自分の幸福を確かめることになります。勝ち組、負け組という言葉があるように、優越感を感じ、自分の価値を確認していくためには、果てしない競争に巻き込まれ、勝つ努力が求められます。


 別な人たちは、人との比較で劣等感を感じ、生きることに辛さ、苦しさを覚えます。色々な人と自分を比較して優越感を持てなければ、自分は駄目な人間だと思ったりする。時には、人をうらやましく思ったり、妬んだりして、そしてそんな気持ちを抱く自分が嫌になってしまうこともあります。自分を人と比較し、自分で自分を傷つけます。


 私たちは、人との比較の中で、生きることを余儀なくされてきました。そして私たちの心に平安はなく、自由を感じることができないのです。もっとああなりたいとか、こんなんではいけないんだ、という思いから、逃れられません。うらやましさ、妬みの感情がつきまとう、人を見下したり高慢になる気持ちがつい浮かんでくる。そんな自分が嫌だと思っていてもどうにもならない不自由さがあります。


 私たちには、比較されることからなかなか逃れられない現実とそこから生まれる不自由があります。不自由どころか、私たちの心はずたずたに傷つき、自分はこれでいいんだと思えなくなりました。神の教えも、それを守れない自分をみじめにさせてきました。

 私たちは、自分の無力さ、限界を認める所から出発して、信仰の成長、霊的成長を考えてきました。弱さの中にある私たちを強め、励ます神がおられるので、自分の無力さ弱さを受け入れることができるようになりました。


 さらには、そのような自分のことを神は愛してくださり、あなたは価高く貴い存在、と言ってくださり、さらに私たちに賜物を与え、私たちを生かしてくださるので、私たちは自分を素晴らしい存在だと受けとめることができることを知りました。


 ありのままの自分を肯定することができるようになりました。私たちが自分を受け入れ、自分はこれでいいのだと肯定できる時、実は人との比較をしないで生きることができるようになるのではないでしょうか。信仰の成長の第4のポイントはこうです。

「人と人との比較の中で自分を見ることをやめ、自分との比較の中で人を見ることをやめた。私は自分の価値を確認するために他人を利用する必要がない」。

ルカ福音書18章9節以下にイエスの話されたたとえがあります。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 イエスの時代、神の教えである律法を守る人は正しい人、守らない人は罪人という考え方が支配していました。ファリサイ派の人は、

「この徴税人のような者でもないことを感謝します」

と述べています。彼は徴税人と自分を比較し、自分はずっとましな人間であることを感謝すると述べています。このファリサイ派の人は、自分が「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と自分のことを語り、神の教えをきちんと守っていると自負しているのです。そして徴税人のような罪人でないことを喜んでいるのです。神に感謝さえしています。他方、徴税人はこう祈りました。

「神様、罪人の私を憐れんでください」。

 彼は自分の中に誇りうるものは何一つないことを知っていました。それどころか自分の中にあるのは罪、罪を犯す自分しか見いだせないので、「私を憐れんでください」としか祈れませんでした。イエスは、義とされて家に帰ったのは、この徴税人だというのです。「義とされた」とは、神様から、正しいと見なされることを意味します。神の前に正しい人間と見なされたのは徴税人だというのです。

 イエスは、人との比較の上で自分の正しさを誇ることを間違いだとしたのです。神の前に正しいかどうか、それはその人の生き方そのもので決まるのであって、人との比較によって決まることではないと言うのです。徴税人は、自分が罪人であることを認め、赦してくださいと神に祈っています。彼は正直に、神の前に自分が罪人であることを認め、赦しを求めています。これは神の前に正しいことであり、神に喜ばれることです。


 ファリサイ派の人は、自分が神の前で正しく生きていると誇ります。神の前に立つ自分には、罪があるのではないか、という思いは少しもありません。さらに自分は徴税人よりましだと考えています。この態度は、神の目からすれば、高慢になります。イエスは、人は皆神の前に立つ。神だけが、人がどのような人であるかを判断できると考えるのです。人は自分だけでは、自分がいかなる者かを知ることはできません。だから人は自分を他の人と比較します。比較することによって、自分がどんな人間であるかを理解しようとします。ファリサイ派の人は、徴税人より自分はましな人間だと考えました。


 私たちも自分と他の人とを比較し、自分がどんな人間であるかを考えるのです。ある人は優越感を抱き、ある人は劣等感を抱きます。ある人は、人をうらやみ妬みますが、別な人は人を見下します。自分と人を比較し、人は自分の位置を、自分の価値を確かめるのです。それで安心したり、みじめさを感じたり、自分について人は様々な思いを抱きます。そこには平安はありません。だって人は、いつも一番でいることはできないからです。


 人との比較ではなく、神が自分をどう見てくださるのか、そこに自分の真の姿があるのです。他人との比較の中で自分を見るのではなく、神が自分をどう見ておられるのか、そこに基盤を置くのです。私たちは無力さ、限界を持ち、欠点もあります。しかし、イエス・キリストを信じる人は神の子とされ、価高く、貴い、つまり価値ある存在と神から見られているのです。神様がいるので、私たちは、自分をこれでいい、と受けとめることができるのです。そして自分を受けとめる時、他の人と比較する必要が無くなります。その時、私たちは自由とされます。

 今日のマタイ福音書では、ある人が旅行に出かける時、僕たちを呼んで自分の財産を預けます。その時、それぞれの力に応じて、預ける額が異なります。ここでなぜ、人には、力の差があるのかという疑問が生じます。力の差があるから比較することが生じます。神が人を造ったというなら、これは不公平ではないか、と考えることもできます。自分は力が小さい、それで劣等感を持ったり、自分のことがみじめに思えたりする。自分の力が大きい、それで優越感を持ったり、人を見下したりする。


 私は今、説教のことを学ぶために、元東京神学大学の教師であった加藤常昭牧師の本を読んでいます。すると自分との違いの大きさに気づきます。加藤牧師が説教者とは何かについて深く考察をし、説教者の在り方について述べる時、そこまで考えられない自分は何なのか、と思ってしまいます。そこまで考えて説教者としての働きができれば、どんなに素晴らしいかと思います。でもそれができないのです。彼我の差は、あまりにも大きいのです。そこで、こんな自分は説教の務めを果たせるのか、果たしてよいのか、と危機感を抱きすらします。

 このたとえは、自分の力に応じて忠実に働くことが大事だと教えています。それはわかります。しかしなぜ、力の差があるのか。差があるから、劣等感とか、優越感とか、悩ましい問題が起きてくるわけです。神は不公平ではないのか、と訴えることができるかもしれません。しかし聖書には、神は偏り見る方ではないと書かれています。力に差があってなお神は公平とはどういうことなのでしょうか。


 5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は共に商売をしました。元手が違うということは、商売の仕方が違うこと、だから利益の額も違うと考えることができます。そこに二人の力の差があります。力に差があるということ、それは役割の違いと考えることができます。賜物の大きさの違い、賜物の種類の違い、それは不公平ではなく、役割の違いなのです。あなたの賜物の大きさ、賜物の種類、それはあなたにふさわしいものだと神は言うのです。そして私たちはこれを信じるのです。


 このたとえで主人は、商売をして儲けた僕に同じ言葉をかけています。特に「おまえは少しのものに忠実であったから」と述べています。人間の側の力の違い、そこから生まれる結果の違い、それは神の目には小さなことなのです。そして結論は、忠実であることが大事だということです。自分と人を比較すれば様々な違いがあります。その違いには意味があり、私たちにはそれぞれの役割が神から与えられています。このことを知る時、私たちは自分自身を喜ぶことができ、自分にふさわしく役割を果たして生きることができます。そして人との違いに悩まされることなく自由に生きることができます。


 神が私たちのことをどう見ているか、それが大事なのです。人との比較によって自分を見ないのです。私たちは人の目を気にすることはとても上手だし慣れていますから、今後は、神の目を気にすることも上手にできるはずです。神が私たちのことをどう見てくださっているのか、つまり、神の子、価高く貴い、私たちにふさわしい賜物を与えてくださっていると、自分のことを考えることです。この時、人と比較することから解放され、私たちは自由な人にされていきます。ありがたいことです。


祈り

天の父なる神様、イエス・キリストを通して、あなたが罪深いものをも愛してくださる方であることを教えられています。取るに足りない私たちもまた、あなたに愛され、あなたに支えられ、あなたに生かされていることを信じます。あなたは私たちのことを神の子ども、価高く貴いものと見てくださることを感謝します。この神様の思いを真剣に受けとめることができますように。そして人と比較して自分の価値を確認しようとする考えから離れることができますように導いてください。また人がどのように私たちのことを評価しようとも、それに惑わされることがありませんように助けてください。そして私たちが神の子どもとして、成長し、自分は本当に素晴らしい存在だと確信できるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。