本日のメッセージ(2010.7.25)
聖書 ルカ福音書 24章13〜35節 霊的成長のための聖書の読み方
昔、上の学校に進学するための受験に失敗した時、父が私に教えてくれた言葉があります。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」
という言葉です。意味は
「大きなものに従うよりも、たとえ小さくてもかしらになったほうがよい」
との意味です。父は、成績の良い人が集まる学校へ行って、成績順位を落とすよりも、そうでない学校で、成績順位が上の方がよいのではないか、と言って受験に失敗した私を慰め、励ましてくれました。この父の言葉は、私に対する励ましの言葉として忘れられない言葉です。ある時期、私の心の拠り所となりました。
皆さんが拠り所としている言葉はどんなものでしょうか。たいていの人は何か拠り所となるような格言、有名な人の言葉とかを持っています。そういう言葉を座右の銘と言ったりします。信仰を持っている人は、聖書の中の言葉を拠り所としている人が多いと思います。聖書には、すぐれた言葉がいくつもあり、色々な状態にある人を慰め、励ます言葉が沢山あります。そういう言葉に出会うだけでも聖書を読む価値があります。
でも聖書は、人間を支えるだけではなく、私たちの未来を切り開く希望の書物と言うこともできます。聖書に導かれて人生を歩む時、聖書の言葉を通して、私たちの思いを越えて、神は私たちの人生を導かれます。聖書はまことに神の言葉、この聖書を通して神が語りかけてくださいます。聖書はまことに素晴らしい書物です。聖書の真の価値を知る人は幸いな人です。
今日の聖書、13節によれば、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていたことが書かれています。60スタディオンという距離は、約11キロの距離です。なぜ、エルサレムからエマオ村に向かっているのでしょうか。それは、イエスが十字架で死んでしまったので、もはやイエスについていくことができなくなったからです。そこで彼らは自分の村に戻ろうとしたのです。イエスに出会う以前の生活に戻ろうとしたのです。
この二人の弟子たちは、話し合いながら歩いていました。14節によれば、彼らはエルサレムで起きた一切の出来事について話し合っていたとあります。つまり
- イエスが十字架で死んだこと、および、
- 「イエスは生きている」というお告げを天使から受けたという仲間の婦人の知らせについて話し合っていました。
- 弟子たちは、イエスの十字架の死について、またイエスは生きているという婦人たちの知らせをどう理解していいかわからずにいました。
15節によると、そこにイエスが近づいたとあります。そして16節によれば、二人の弟子たちは、近づいた人がイエスだとは気がつかなかったとあります。これは不思議です。人間の外見,顔つきなどは急に変わるわけではないので、イエスだとわからないと言うのは、不思議です。その理由として
「目が遮られていたから」
と説明されています。
これは文字通り、イエスがわからなかったというより、二人の弟子は、イエスのことを本当には理解していなかったということを示しているのだと思います。
この弟子たちの姿に、私たちは、自分を重ね合わせることができると思うのです。つまり、心が曇らされているために、聖書が神の言葉であるということがわからない、私たちの姿です。この場合、私たちというのはこの世に生きている人々のことです。
聖書は多くの人に読まれていますが、皆が、聖書を神の言葉として読んでいるわけではありません。信仰者といえども、聖書にはよいことが書いてある程度の理解の人もいるのです。もし私たちが本当に聖書が神の言葉であり、神が聖書を通して語りかけられると信じるなら、私たちは聖書を放り出すか、真剣に読むか、どちらかになると思います。放り出すのは、怖いからです。
心が曇らされているので、この世の人は聖書を手に取らないし、信仰者といえども、神の言葉を慕い求めるところまでいかないという現実もあります。
- 信仰者のおつとめとして聖書を読むことはありますが、神の言葉としてはなかなか読まないのです。読めないのです。
- 神の言葉として読みなさいと言われても、どう読むことが神の言葉として読むことなのかわからない、そういう現実もあります。
イエスはこの二人の弟子たちに「何を話しあっているのか」と問いかけます。すると弟子たちは
「ナザレのイエスについて話をしていました。この人は、力ある預言者で、イスラエルを外国の支配から解放してくれる方だと望みを持っていましたが、この方は十字架で死んでしまいました」
と答えます。さらに
「仲間の婦人たちが『イエスは生きている』というお告げを天使から受けたというのを聞きました」
と付け加えます。
するとイエスは、25節、
「物わかりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち」
と咎めます。そして聖書全体にわたって、メシア、つまり救い主について書かれていることを説明するのです。イエスは、救い主が苦しみを受け死ぬこと、そして復活することを既に預言者が語っていることを説明します。弟子たちの救い主についての理解を正すのです。
この二人を含め、イエスの弟子たちは、イエスの働きとイエスの教えを直接見聞きしています。
- イエスは多くの病人をいやす力ある業を行い、風に命じて風を静かにさせたり、水の上を歩いたり、不思議な力を示しました。
- またイエスの権威ある教えに驚きました。
- だから弟子たちはイエスを、力ある政治的指導者、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する人物だと思ったのも無理はありません。
でもそれは誤解でした。イエスはその誤解を聖書全体から説明をして正されました。イエスは救い主ですが、どういう救い主なのかは、聖書を理解しないとわからないのです。弟子たちは、イエスの働きと教えを直接目撃し、自分たちの経験からイエスがどんな救い主かを考えたわけですが、それは間違った理解でした。イエスから聖書の説明を受けた二人の弟子たちは、イエスについて、救い主について正しい理解を得ることができました。
私たちもまた、聖書からきちんと教えられないと救い主について正しく知ることができないのです。いつの間にか、神についてのイメージをつくってしまうのです。救いについてのイメージをつくってしまうのです。神はこういう存在だ、キリストによる救いはこういうものだ、という自分なりの理解を持ってしまうのです。
私たちの手元には聖書があり、読むことができます。そして牧師から礼拝のつど説教を聞くことができます。だから自分で聖書を読み、説教を聞いていれば、私たちはイエスのことを正しく理解できていると思われるかもしれません。しかし、イエスと直接接した弟子たちでさえ、イエスのことを誤解したのです。
私たちもまた、聖書全体が、人間の救いについて、何を語っているのかを学んでいかないと、救い主について、また救いについて、弟子たちのように間違った理解をしかねないのです。そして間違いは指摘されないとなかなか気がつきません。でも人は「あなたは間違っていますよ」とは語りません。自分の理解は正しいのかどうか、自分を吟味することも大切なのです。使徒パウロも語っています。「信仰をもって生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」(コリント二13:5)。
ですから教会の集会で、聖書を学ぶことの大切さは、どれほど強調しても、強調しすぎることはありません。今日の聖書では、イエスが直接二人の弟子を教えられましたが、イエスが私たちを直接教えることはありません。イエスは、教会に教える人をお立てになりました。つまり牧師です。
私自身は、学びの機会を提供し、皆さんが参加するのを待っています。学びに参加するかしないかは、皆さんの自由です。神が人間の自由を重んじるように、私も皆さんの自由を大切に考えています。神はイスラエルの人々にこう言いました。
「私はあなたたちの前に祝福と呪いを置く。好きな方を選びなさい」。
- どちらを選ぶか、イスラエルの民は自由なのです。
- 選択した結果は全く違ってきます。
- 自由とは、選択の結果を自分の責任において受け取るということです。
だから私は皆さんに是非聖書を学んで欲しいと願っています。信仰というのは、神様との交わりです。だから私たちは、自分の願いを神様に伝え、願いをかなえてもらおうとします。それは正しいことです。しかし私たちは、神様の心をどれほど知ろうとしているのか、それは考える必要があります。神様の心を知ろうとしなければ、私たちは神様のことを知っているとは言えなくなり、自分で造り上げた神を信じることになりかねません。自分なりの神のイメージをつくると聖書は読む必要がなくなります。神を知っていると思っているのですから!
夕方になり、エマオの村に近づきました。二人の弟子たちは、一緒にお泊まりくださいと言って、イエスを引き留めます。そしてイエスと一緒に食事をします。イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いた姿を見た時、弟子たちの目が開け、イエスだと気づきます。さらにイエスから聖書を教えてもらっている時、心が燃えていたことにも気づきます。心が燃える、それは聖書を理解していく時に与えられる感動と言ってよいと思います。
その感動は、後から気づくほどの静かな感動なのです。静かな感動ですが、人を動かしていく感動です。聖書を理解して行く時、私たちの心は真理を識別できるようになります。その心が、今や、イエスはどういう方であるのか、イエスは今も生きていることが、わかるようになっていったのです。
イエスは生きている、その事を知った二人の弟子は、すぐにエルサレムに引き返し、他の弟子たちに復活したイエスに出会った次第を話し、イエスが復活された喜びを分かち合いました。
イエスが生きている、今も私たちと共にいる、と私たちは聞かされ、聖書にもそのように書かれており、イエスは生きている、何となく私たちはそんな気持ちになっていきます。そしてイエスは生きていると信じているような気持ちになっていきます。しかしイエスが生きていると信じる時、もう一つの出来事が起きます。つまり、聖書が神の言葉であると悟ることです。
イエスが生きていると信じるとは、聖書が神の言葉であると信じることであり、神の言葉に身を任せて生きるようになることです。自分の分別ではなく、神の言葉を神の導きとして受けとめ、これに従って生きるようになることです。
「私は道であり、真理であり、命である」
とイエスは言われました。イエスが生きているなら、イエスの語った言葉は真理です。イエスの語った言葉は、今生きておられるイエスの言葉でもあります。イエスは生きている、つまりイエスは真理であるということです。神の言葉は真理だということです。私たちもまた聖書を学んでいく時、イエスが生きておられることと、聖書が神の言葉であることを信じるようになっていくのです。
イエスが生きておられる、神の言葉が真理であると知る、それは単なる知識ではなく、知ることによって自分の生き方が変えられるような知り方です。聖書は、人を生かす素晴らしい神の言葉なのです。
説教のテーマを
「霊的成長のための聖書の読み方」
としました。読み方はいろいろとあると思います。
聖書を神の言葉、真理の言葉とし、その真理に動かされて生きるようになるのなら、どのような読み方でも良いのです。大切なことは、聖書全体から学ぶことです。
祈り
十字架で死んだ後、イエス様は復活し生きておられることを知った弟子たちはどんなに喜んだことでしょうか。そして、聖書が神の言葉、真理の言葉であると知り、これによって生かされることはどんなに喜ばしく、幸いなことでしょうか。
二人の弟子たちは目が開けて、イエスが生きていることがわかりました。神様、どうか私たちの目を開かせ、聖書が神の言葉であることを悟らせてください。聖書全体を学び、あなたのこと、あなたが与えてくださる救いがどのようなものか悟らせてください。そして聖書によって生かされる者としてください。聖書を神の言葉として受けとめる者として生きていきます。憐れみ深い神、我らの歩みを支え、導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。