クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

牧師が引退するとき(2)

 引退をする時期を決めるのは簡単ではありません。牧師としての働きを開始する場合は明確です。神の召しを受け、神学校で学び、卒業して教会に赴任し、牧師としての働きを始めます。しかし引退はどうでしょうか。神さまから、あなたは引退しなさいとの導きを受けるのでしょうか。受ける場合もあるかと思いますが、明確に引退しなさいとの指示を受けるとは限りません。


 牧師として働くことへの召しに終わりがあるかどうか。年をとれば召しに応じることが困難になることがありますから、終わりがあると考えるのが自然です。では神さまがその終わりの時期を示されるのでしょうか。常識的な判断をすればよいのかもしれません。しかし引退を決意するとき、それが人間的な思いではなく、御心にかなうと確信できるとすれば、それは何によるのでしょうか。長老会に辞任の申し出をしたとき、引退は神さまの御心にかなうとの強い確信は持っていませんでした。しかし、御心と受けとめてよいのと思いはありました。でも今、御心にかなうと納得するようになりました。


 かつて金沢元町教会から招聘を受けたときは、聖書を読んでいて、招聘を受けようと決断しました。その時は、前教会で会堂建築を行い、献堂式を終えたばかりでした。ですから、今教会を移ることはあり得ないとの思いがありましたが、聖書を読んで招聘を受ける決心をしました。

その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである(使徒言行録16:9〜10)。


 今回は、聖書の導きはありませんでしたが、神さまの“導き”と考えるようになりました。今まで決して行かなかった大学の同窓会に行き、たまたま寄ったキリスト教書店で、たまたま目にした本があり、それが、たまたま“引退”を特集していました。偶然の重なりを神の導きと考えてもよいと思いました。引退を考えるきっかけを与えられたことは、引退してもよいとの神さまの御心を示された思いがしています。



八ヶ岳のふもとをドライブしていたときに見た花

↑妻には懐かしい花とのこと。花の名はフシグロセンノウ。野草でこの色は珍しいと思った。