クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 列王記上17章

(内容)
 ここには三つの出来事が語られています。預言者エリヤがアハブ王に干ばつが訪れることを宣言します。そして神はエリヤにケリト川のほとりに身を隠すように命じます。そこで鳥にあなたを養わせると神は告げます。二番目の出来事。干ばつで川の水が干上がると神はエリヤに、サレプタに行くように命じます。そして一人のやもめにあなたを養わせると語ります。三番目の出来事。やめもの息子が病気で死に、彼女はエリヤに苦情を言いますが、エリヤは神に祈り、その息子を生き返らせます。


(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か

  • 神は命令と共に約束を語る方です。ケリト川のほとりに身を隠せと命令し、鳥にあなたを養わせると約束します。また一人のやもめのところへ行くように命じ、彼女にあなたを養わせると約束します。
  • 神は祈りに耳を傾ける方です。エリヤの祈りに耳を傾け、やもめの息子を生き返らせています。
  • 神がアハブ王に干ばつを告げたこと、それは一つの裁きですが、アハブ王に悔い改めを求めてのことです。アハブ王は、今までのどの王よりも神の目に悪とされることを行ったとされていますが、そのアハブ王を神は憐れみ、悔い改めに導こうとされている。

☆神が求める私たちの生き方

  • エリヤは神の言葉を語る者として、自ら神の言葉に従っています。ケリト川のほとりに行き、一人のやもめのところに行っています。神の言葉に従うという点で、私たちの模範です。
  • 神の命令と約束を聞くとき、その命令に私たちが従い、約束の実現を受け取ることを神さまは願っています。エリヤ自身、鳥に、やもめにあなたを養わせるとの神の約束の言葉を聞き、ケリト川に行きなさい、やもめのところに行きなさいとの神の命令に従っています。
  • やもめもまた、エリヤから命令と神の約束を聞いています。エリヤはやもめに、パンを一切れもって来てくださいと願います。命令と受けとめることができます。実は彼女には、一握りの小麦粉とかめの中にわずかな油しかありません。それは彼女と息子の最後の食べ物となるものです。それを食べれば、もう食べるものはなくなり、あとは死を待つばかりです。そのなけなしの小麦粉を使ってパンを作りエリヤにさし出せというのです。彼女が事情を伝えるとエリヤは、神の言葉を告げます。それは約束の言葉です。「主が地の面に雨を降らせるまで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はこの約束の言葉を受け入れ、エリヤになけなしの小麦粉を使ってパンを作って与えます。約束の言葉を信じて神の命令に従う模範があります。
  • しばらくしてやもめの息子が病気で死にます。彼女はエリヤに苦情を言います。息子の死を、そういうことも世の中にはあると受けとめることができませんでした。エリヤとの出会いを通して、彼女は神を意識し、その病気は自分の罪を思い起こさせたと語ります。しかしエリヤは神に祈り、その息子を生き返らせます。信仰者の身には色々なことが起こりますが、神が共におられ、神さまのご支配の中に信仰者は生きる者であることを教えられます。
  • 神は憐れみ深い方であり、どんな人でも、どんなことをした人でも悔い改めるのを待っておられる。私たちのうちに悔い改めるべき事があれば悔い改めよう。


(黙想)

  • 不思議なことに今日の物語では、神さまがエリヤに語るべき言葉を与える場面が描かれていません。エリヤに対する神の言葉は「あなたを養わせる」という言葉です。しかも鳥に養わせる、やもめに養わせるというのです。エリヤにすれば、鳥とか、やもめとかに養ってもらえるかどうか、本当か、信じられるか、と疑いたくなります。「いや、神さま。自分のことは自分で何とかします」と言いたくなります。でもここで知るのは、神さまの言葉を語る者は、自ら、神の言葉に従うべきであるということです。鳥とかやもめとか、当てになるかどうか分からないから、自分で何とかしますというのは、神に対して不服従となります。神さまは預言者エリヤが、神の言葉を語る者として、神の言葉に従うかどうか、試みたということができるかもしれません。たといそれが愚かに見えたかもしれませんが、エリヤは神さまの言葉に従いました。
  • 僕は牧師として福音を宣べ伝えるように神さまに召され、その働きをしてきました。引退したからといって、福音を伝えよとの神さまの召しがなくなったとは思いません。仕えるべき教会がなくなった今、引退した今、「あなたには心から伝えたいものがあるか」との問いを向けられているような気がしています。今までは伝える務めがあり、説教あるいは集会を通して福音を伝えてきました。今、定期的に伝える機会はないし、伝えることから引退しました。務めから離れた今、あなたは今まで、「本心から伝えたいもの」を伝えてきたのか、との問いがあります。
  • もしあなたが本心から伝えたいものを伝えてきたのなら、引退しても「伝えたいものがある」ことに変わりはないはずだ。それを今までとは別な形で伝えてもよいのではないか、との問いかけがあります。
  • 先日、中部教区総会に出席したとき、ある方が声を掛けてくださいました。「私は来年隠退します。健康が牧師の務めを続けるのは許しません」と事情を話されました。僕は引退はしましたが、まだ何事かをしようと思えば、できる状況にあります。「あなたが伝えたいことがあるなら、今の立場で伝えたら」との神さまの声が聞こえるような、聞こえないような状況にあります。引退はまだ早いでしょう?とおっしゃる方が何人もいました。もし早いなら、神さまは何か、使命を与えてくださっていると考えることができます。本心から伝えたいものがあるなら伝えなさい、との神さまの命令を聞いてもよいのかも知れません。それに対する約束は「わたしはあなたと共にいる。私はあなたを導く」。
  • やもめの女性は、エリヤがパンを焼いて持ってきてくださいと願ったとき、驚きと怒りの思いが湧いてきたと思います。そして事情を語ります。なけなしの小麦粉を「あなたのために使う?」。どうしてそんなことができるの?、そんなことをしなければならないの?しかしエリヤは壺の粉は尽きることがない、瓶の油も尽きることがないとの約束の言葉を聞いて、エリヤの願いを受け入れます。なけなしの小麦粉でパンを焼き、エリヤにさし出します。自分の生活に必要なもので、残されたわずかなもの、なけなしのものを差しだしたのです。その時、約束の実現、祝福が訪れました。
  • 70歳になれば、いつ死んでもおかしくないです。残りの人生の時間が限られています。なけなしの時間をどう過ごすのか、これも課題です。伝えたいと思うことを伝えることを使命としてよいのではないか。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フリピ2:13)。
  • でも「これでおしまい」と中断の時がいつ来るか分からないことも確かなので、何事かを成し遂げようとの思いは捨てたいと思います。


(実践)

  • 神は祈りを聞かれる方なので、自分が本心から伝えたいものがあることを伝え、導いてくださるように祈り求める。
  • この思いは神から出たことであると信じる。