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説教 主にわが身をささげて

 ブログに説教の音声データをアップするのははじめてです。今週の日曜日、招かれて礼拝説教の奉仕をしました。その説教です。スマホの方は、すぐ下にある小さなマークをクリックしてください。

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以下は、説教の原稿です。


聖書 ローマ12章1〜2
説教 主にわが身をささげて
2017/05/28


→私はこの3月末をもって金沢元町教会を辞任し引退しました。
引退牧師の堀江明夫と申します。
私が牧師を志す思いを強めてくれた聖書の言葉が今日のローマの信徒への手紙の12章1〜2節でした。
信仰を持つ前の20代の私は、
生きることの空しさに心が支配されていました。
救いを求めていましたが、たまたま伝道集会に誘われ、
それがきっかけで信仰に導かれました。
空しさからの救いを求めていた私にとって、
神さまに自分を献げるという生き方は新鮮で素直にこれを受け入れることができました。
そして今日に至っています。

→皆さんは、
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」との勧めをどう受けとめられるでしょうか。
私は今奈良に住んでいますが、
このゴールデンウィークに横浜に住んでいる長男のところに行ってきました。
長男は、教会で執事の奉仕をしています。
教会総会で長老に選ばれたりしないの、と聞いたら、「長老はね、
まだいいや。
教会の奉仕のためにずいぶん時間が取られて、
自分のやりたいことができなくなるから」と話していました。
ウィークデイは仕事をしていますし、
家から教会まで車で片道小一時間かかります。
ですから息子の気持ちも理解はできます。
もう一度皆さんに伺います。
皆さんは、
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」との勧めをどう受けとめられるでしょうか。
→信仰者に対する勧めですから、あからさまに反対はできません。
なぜなら聖書は神の言葉であると私たちは信じます。
しかし「でも」とためらいを感じられるかもしれません。
自分を献げたら、
自分の人生はどうなるの?私にはやりたいことがあるし、夢もある。
いや生きていくためにしなければならないことで毎日が精一杯。
そんな思いがあるかもしれません。
そこで、
できる範囲内ですればよいのではないかと考えたりするかもしれません。
「体を献げる」というのは、
動物のいけにえを祭壇で献げるイメージを思い起こさせます。
つまりこの勧めは、私たち自身を神さまに献げなさいとの勧めです。
できる範囲ですればよいといっても、
言い訳をしているようで後ろめたさを感じないわけではありません。
建前としては献げるべきである、本音としては気が進まない、
そういうことがあるのではないでしょうか。
とすれば、この点を解決しないと聖書の説き明かしをいくらしても、
無駄になりかねません。
そこで、
どうしたらこの勧めに喜んで応じることができるようになるのか、
最初にそれを考えたいと思います。

→神さまは、
あなたの体をいけにえとして献げなさいと言われます。
しかしあなたの心がためらいを感じているとするなら、
素直に「そうします」と言えないなら、
善い悪いは別にしてあなたの心は神さまの心と一つでないことになります。
もし私たちの心が神さまと一つであるなら、
この勧めを喜んで受け入れ従うことができます。
そこで思うのですが、聖書が伝える信仰とはどのような信仰なのか、
ということです。
信仰理解が正されるとき、
私たちは喜んで神さまに自分を献げる者となると信じます。
そこで聖書が伝える信仰とは、
どのように神を信じる信仰なのでしょうか。
私たちの心を神さまの心と一つにして生きる、
それが聖書の伝える信仰なのではないでしょうか。
そのことを聖書から確認してみたいと思います。

→最近、私は列王記を読んでいます。
列王記はイスラエルの初代の王ダビデが死ぬところから始まります。
神さまがダビデを王に立てるとき、彼に約束を与えました。
神さまは預言者ナタンを通してダビデに告げます。
「主はあなたに告げる。
主があなたのために家を興す。
あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、
あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、
その王国を揺るぎないものとする」(サムエル記下7:11〜12)。
ダビデの王国は固く立つと神さまは約束されました。
ダビデの死後ソロモンが王となります。

→ある時、神さまはソロモンの夢の中に現れて言います。
「何事でも願うがよい」。
するとソロモンは「知恵を与えてください」と答えます。
自分のために長寿を求めることもせず、富を求めることもせず、
敵の命を求めることもなく、
知恵を求めたソロモンを神は喜ばれます。
そして神はソロモンに約束を与えます。
「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。
生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。
もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、
わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」。
この神さまの言葉には、約束と条件があります。

→約束は、ソロモンが求めなかった富も栄光も与える。
さらには長寿をも与えるというものです。
そのためには条件があります。
その条件とは、もしあなたが父ダビデの歩んだように、
わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、です。
条件ということは、その条件を守るか守らないかは、
ソロモンの自由です。
ソロモンの選択に任されています。
神さまは、ソロモンが条件を受け入れることを願っています。
つまりソロモンがその心を神さまの心と一つにすることを神さまは願っています。
神さまは、敢えて、そうせよと命じるのではなく、
条件にしてソロモンに自由な選択をさせようとしています。
神さまが「わたしの道を歩むなら」と言われるとき、
それは神さまと一つ心になることを意味しています。

→ソロモンは沢山の外国人女性を妻にしました。
ソロモンが老境に入ったとき、老人になったとき、
この女性たちがソロモンの心を迷わせました。
ソロモンは彼女たちが崇める神を礼拝するようになりました。
偶像礼拝をするようになったのです。
このソロモンについて聖書はこう語ります。
「こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、
主と一つではなかった」。
神さまは偶像礼拝を禁じていましたが、
ソロモンは偶像礼拝を行ったのです。
こうして彼の心は、自分の神、主と一つではなかったと言われます。
このことは神さまを怒らせました。
その結果、ソロモンの死後、
イスラエルは分裂することになりました。
ダビデ王国は固く立つというダビデに対する神様の約束にかげりが生じました。

→イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。
神さまはソロモンの家来のヤロブアムを北イスラエルの王に選びます。
神はヤロブアムに言います。
ソロモンの場合と同じように、神様の約束と条件があります。
聞いてください。
「わたしはあなたを選ぶ。
自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。
あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、
わたしの目にかなう正しいことを行い、
わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、
わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、
あなたのためにも堅固な家を建て、
イスラエルをあなたのものとする」。
ここにも神様の約束と条件があります。
「わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行うなら」、
これは神さまの条件です。
「わたしはあなたと共におり、あなたの家を堅く立てよう」、
これは神様の約束です。
どうするかはヤロブアムの選択に任せられていますが、神さまは、
彼がその心を神さまとひとつにすることを願っています。

→聖書が告げる信仰、
それは自分の心を神さまとひとつにする信仰です。
昔、神さまはアブラハムに呼びかけました。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。
これは神さまの命令です。
続いて神さまは言います。
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、
あなたの名を高める/祝福の源となるように」。
これは約束です。
アブラハムは神の約束を信じ、その命令に従いました。
彼は神さまと心をひとつにしたのです。
その結果、神の約束は実現し、
彼の子孫はイスラエル民族となりました。
そしてこんな言葉もあるのです。
「主は世界中至るところを見渡され、
御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」(歴代誌下16:9)。
私たちの心を神と一つにするとは、
神さまのような心を持つということではなく、神さまの約束を信じ、
その約束の実現を目指して進むということです。
約束を与えてくださった神さまの心を大切にする、
それが神さまと心を一つにすることです。

→今日の聖書の2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあります。
自分の心を神とひとつにするということを考えるとき、
私はこの言葉をこう解釈します。
この世に倣う、それは自分の心の欲するままに生きることです。
この世の人は皆そのようにして生きています。
自分の心を最優先にして、自分の心に正直に、
自分の心を大切にして生きることです。
この世の人は、神様の約束を知らないし、知ろうともしません。
神さまの心など関係なく生きています。
聖書が語る罪とは、神さまの心と一つになろうとしないことです。
ソロモン王にしても、ヤロブアム王にしても、神の道を歩まず、
神の心と一つになろうとしなかったので、神の怒りを買いました。
神さまの心と一つになろうとしない、それが根本的な罪です。

→そうすると悔い改めとは、
神の心と一つになろうとしない態度を改めて、
神の心と一つになろうとすることです。
私たちは、罪というと、
あれこれの悪とされることを行うことと考え、
それを改めることを悔い改めと考えます。
それは間違ってはいませんが、正確ではありません。
つまり、神さまと心が一つとなっていない心から、
あれやこれやの悪しき行動が生まれてきます。
具体的なあれやこれやの悪しき行動を悔い改めても、
神さまの心と一つになろうとしない限り、
根本的な罪を改めない限り、いつまでも、
あれやこれやの悪を繰り返すことになります。
偶像礼拝を行ったソロモンは、神を捨てた、と言われます。
神さまの心と一つになろうとしない心は、
神を捨てた心だというのです。

→そして私たちが自分の心を神さまと一つにできない理由があります。
信仰とは、神さまとの交わりに生きることです。
しかし、多くの人がこのことを知らないのではないかと思います。
神さまを信じるとは、神との交わりに生きることです。
パウロは、コリント教会宛の手紙でこう述べます。
「神は真実な方です。
この神によって、あなたがたは神の子、
私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリント一1:9)。
私たちが、
神さまとの交わりに生きることを意識するなら、
自ずと神さまの心を大切にし、
神さまの心と一つになる歩みを始めます。

→実は、神さまは私たちのために、
交わりに生きる訓練の場を用意してくださっています。
つまり結婚です。
結婚とは一組の男女が交わりに生きることです。
お互いに相手の心を大切にし、重んじ、共に生きていく、
それが結婚です。
結婚は、一組の男女が人格的な交わりに生きる場であり、
また訓練の場でもあります。
結婚生活を続ける中で、人は人格的な交わりに生きることに成長していくのです。

→信仰とは、神さまとの交わりに生きることです。
私たちは、自分の心を神さまとひとつにするよりも、その反対、
つまり神さまがその心を私たちとひとつにしてくださることを求めがちです。
するとお祈りも、お願いだらけの祈りになったりします。
交わりに生きるためには、
お互いに相手の心を大切にすることが不可欠です。
夫が妻の心に無関心であれば、結婚生活はうまく行きません。
自分を神さまに献げるという勧めを考えるときのポイントは、
信仰を神さまとの交わりと考えているか、どうかなのです。
そして神さまとの交わりに生きることを選ぶかどうか、なのです。
もし私たちが神さまとの交わりに生きることを願うなら、
神さまの御心を知り、み心を大切にし、それに従おうとします。
問題は、
信仰者である私たちが神さまとの交わりに生きようとしているかどうかです。
神さまとの交わりに生きようとしない、それが根本的な罪なのです。

→今日の「自分の体を献げなさい」は、
神さまとの交わりに生きるように私たちを招いています。
信仰者といえども、神さまのみ心に無関心なら、
神さまを捨てていることになります。

→私たちが神さまとの交わりに生きようとするとき、
神さまの約束は無視できません。
今日の聖書の2節、
「心を新たにして自分を変えていただき」とあります。
ここで私たちは洗礼のことを思い出す必要があります。
洗礼には、神さまの約束があります。
一つには、
洗礼を受ける人の罪がすべて赦されるとの約束があります。
二つ目には、洗礼を受ける人は罪清められ、
新しい人になるとの約束です。
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときは、
川の中に全身を沈めました。
そして頭を水の面に出します。
これは何を意味しているかというと、
罪という汚れがすべて落とされて、罪清められること、
罪を犯す古い人が死に、
罪清められた新しい人に私たちが生まれることを意味しています。

→ですから、
「心を新たにして自分を変えていただき」ということは洗礼のときの約束を信じ続けることを意味します。
罪が赦され、新しい人に生まれ変わったことを信じるのです。
信じ続けるのです。
自分は変えられたとは思えないとか、
心が新しくなったとの実感が持てないとか、
そのような実感はゴミ箱に入れて、まず約束を信じるのです。
皆さん、罪赦されたって実感がありますか。
実感がなくても信じているのではないでしょうか。
私たちは信仰者です。
私たちは神様の約束を信じるのです。
罪の赦しも、永遠の命も神様の約束です。

→神さまは、イスラエルの王に約束を与え、
神さまの道を歩むなら、あなたの家は固く立つとおっしゃいました。
洗礼を受けたときに私たちは神さまから約束をいただきましたが、
その約束が実現するために私たちは何をしたら良いのでしょうか。
2節に書かれています「何が神の御心であるか、何が善いことで、
神に喜ばれ、
また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。
これは単純な命令です。
聖書を読めばいいんです。
聖書を読んで、
神さまが私たちに望んでいる生き方は何かを読み取ればいいんです。
そして読み取った教えを実行して生きればいいのです。

→皆さんは既に新しい人になっています。
その証拠に皆さんは、日曜日礼拝を守ります。
説教を聞きます。
家では聖書を読みます。
祈ります。
これはこの世の人たちは行っていません。
つまり皆さんは、新しい人になっているから、
このような信仰者の歩みをしているわけです。
それをさらに一歩進めて、聖書を読むとき、
「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、
また完全なことであるか」を意識して読み取り、
それを自分の生活の中で、どうしたら実践できるのか思いめぐらし、
実行するのです。
その実践は小さなことでもいいんです。
この実践が、神さまを畏れ敬う行為、礼拝となります。

→1節で勧めがなされました。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。
この勧めにアーメン、といって喜んで、素直に従えないとすれば、
信仰が神さまとの交わりであると理解していないからだと思います。
今日の聖書は、あなたは神さまとの交わりに生きていますか、
神さまとの交わりに生きることを願いますか、
と私たちに問いかけています。
私たちは洗礼を受け、神様の約束をいただきました。
そこで大事なことは、私たちは新しい人にされていると信じ、
新しい人として生きることです。
それが神さまとの交わりに生きるということです。
幸いなるかな、神との交わりに生きる人。
幸いなるかな、聖書を読み、神さまの御心を知り、
それを自分の心とし、神さまと心を一つにする人。
私たちの体をいけにえとして献げる生き方は、
神との交わりに生きることから始まります。