クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 列王記上20章

(内容)

  • アラムの王ベン・ハダトはイスラエルに戦いを仕掛け、イスラエルの都サマリアを包囲しました。アラムの王はイスラエルの王アハブに降伏を迫り、条件を出していました。しかしイスラエルの王アハブはこれを拒みました。そこでアラムの王は、さらに厳しい条件を出しました。それは「あなたの銀と金、あなたの美しい妻子たちをさしだしなさい」というものでした。この条件を呑(の)むことのできないアハブは、長老たちに相談し、戦うことを決意します。すると一人の預言者が登場し、戦いに勝利することを告げます。アハブはアラムと戦い、アラムに大損害を与えます。
  • アラムの王は、年が改まる頃、再び戦いを仕掛けます。王の家臣が王に進言したからです。「先の戦いで負けたのは、イスラエルの神は山の神であり、山地で戦ったので負けたのです。今度は平野で戦えば勝つことができます」。この時もアハブのもとに神の人(預言者)が来て、アハブに戦いに勝利することを告げます。実際に勝利します。アラムの王は家来の進言を受け入れ、逃亡するのをやめ、アハブに命乞いをすることにします。アラムの王は、命乞いをするために、アハブに益となる条件を語ります。そして二人は協定を結び、アラムの王は命が助かるだけでなく、帰国することができました。
  • アハブがアラムの王を帰国させたことは神のみ心ではありませんでした。アラムの王を殺すべきだったのです。繰り返し攻撃し戦いを挑む敵たる王は、殺すべきでしたが、命を助け、帰国させました。一人の預言者がアハブに、滅ぼすべき人物を滅ぼさなかったので、あなたが滅ぶと、主なる神の言葉を告げました。その時、アハブは機嫌を損ね、腹を立てました。


(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • 神は一方的に好意を示される方です。イスラエルの王アハブは、アラムの攻撃を受け、窮地に陥りました。アラムの王は条件を出して降伏を迫りました。拒み続けるアハブに対してアラム王は、無理難題と思える条件をつけて降伏を迫りました。アハブは、長老たちに相談するも、主なる神に助けを求めることはしませんでしたし、主なる神のことは彼の心にはありませんでした。それなのに神は、アハブに勝利を約束し、戦うことを勧めました。2回の戦い、いずれも勝利しました。勝利は神がもたらしたものです。神は全くの好意で、アハブ王に勝利を与えました。
  • 神は私たちに悔い改めを求め、神に立ち帰ることを願う方です。神さまは預言者を通して、アハブに二度も「あなたはこうしてわたしが主であることを知るようになる」と告げました。アハブがバアルを礼拝するのをやめ、悔い改めて主なる神に立ち帰ることを願ってのことでした。
  • もし神の好意・助けがなければ、アハブ王とアラム王の立場は逆転し、アハブ王は殺されていたかもしれません。しかし神はアハブ王に主なる神に立ち帰るチャンスを与えられました。神さまは、私たちに好意・恵みを与え、私たちに立ち帰るように機会を与えてくださる方です。

☆神が求める私たちの生き方

  • 神さまは罪深い者たちに好意を示し、恵みを与え、悔い改め、立ち帰ることを願う方です。それなら、私たちは、悔い改めて主なる神さまに立ち帰るべきです。
  • 私たちの生活の中に起きる出来事を振り返ってみることが大切です。神さまの恵みの出来事、神さまの好意による出来事があるのではないでしょうか。私たちはそれを見過ごしてしまうかも知れないし、「ラッキー」と言って、幸運を喜んで済ましているかも知れません。しかし、それはあなたが悔い改め、神さまに立ち帰ることを求めている神さまの恵みかもしれません。
  • アハブは、悔い改めるチャンスがありました。しかし彼は、不機嫌になり腹を立て、悔い改めるどころか、神に背を向けました。神さまによって求められているなら、悔い改めを拒むことは罪を重ねることになります。アハブは主なる神を知ることができたのに、知ろうとしませんでした。


(黙想)

  • イスラエルの王アハブは、なぜ、主に立ち帰ることをしなかったのか、主に立ち帰ることができなかったのか、と考えます。列王記上18章には、バアル神の預言者と主なる神の預言者エリヤとの対決があり、主こそ、生きて働かれる神であることが明らかとなりました。そして今度は、アラムとの戦いに二度も勝利しました。この戦いに勝利する見込みはなかったのに、主の助けで勝利したことは、アハブの目にも明らかなのです。それなのに彼は、主に立ち帰りませんでした。なぜなのかと考えます。
  • 人間には自分の力で生きていきたいという強い願いがあります。自分の力で生きていくことに誇りを感じます。このような人間にとって神は、自分が窮地に陥り、どうしようもないときに登場して助けてくれればいいのです。バアルより、主の方が力が強いかもしれません。しかし、これまで親しんできたバアルを信じる生活を変える必要をアハブは感じなかったのだと思います。悔い改める必要を感じなかったし、悔い改めるなんて、アハブにとっては耐えがたい屈辱だったかもしれません。
  • 私は多くのクリスチャンが「つい自分の力に頼ってしまう」と語るのを何度も聞いてきました。心の底に自分を誇りたいという思い、つまりプライドがしっかりと根付いているのです。人はできるなら自分を誇りたいのです。それが悔い改めるのを妨げているように思います。人は自分の存在理由を自分を誇ることに見いだしがちです。
  • 自分の力で生きていこうとする考えの背後には、人間は努力することが大切だという考えがあるように思います。それは正しい考えです。私たちが神さまに信頼しようと言うと、え、それなら努力しなくていいの、との反応が返ってきます。神に信頼することは自分の努力を放棄することと考えてしまい、神に立ち帰り、信頼することに踏み出せないことが多々あるように思います。信仰者の努力というものがどういう努力なのか、知らない信仰者がいるように思います。それもまた悔い改めを妨げているのかもしれません。


(実践)

  • 昨日ある方から手紙が届きました。その方に私は、金沢元町教会が発行した説教集『聖霊と共に歩む』を贈呈していました。それは四ヶ月ほど前のことです。読み終わっての感想を書いてくださった手紙が昨日届いたのです。思いがけない手紙、神さまの恵みです。神さまの励ましと受けとめて、神さまに感謝を献げます。
  • この神さまの恵みは、私に悔い改めを迫っているかもしれません。とすれば、何を悔い改めるべきなのか、と思いめぐらします。実は、私にはどう悔い改めていいのか分からないことが一つあります。それは「祈りとは何か」が分からないことにあります。かつて私は聖書の読み方について学んだことがあり、それを自分でも実践し、教会員にも教えてきました。でも祈りについては、私はまだ教えることができないのです。自分の祈りが十分ではないと知りつつ、さりとてどうしたらよいのか、わからないという中途半端な状態にあります。きちんと祈るべきだという悔い改めはありますが、どうしたらいいのか分からないという状況があります。でも今、時間のを見つけてはルターの『善きわざについて』を読んでいます。祈りについてのヒントがあるような気がしています。集中してこれを読むことにします。


↑奈良に来たときは桜が咲いていましたが、あじさいの季節になりました。