クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

列王記下20章

(内容)
 ヒゼキヤ王は死の病にかかりましたが、神に祈り、15年寿命を延ばしてもらえることとなりました。ヒゼキヤが病気の時、バビロン王から見舞いの使いが遣わされました。その折ヒゼキヤは王宮の宝物庫の中にある宝をすべて見せました。このことは彼にとって災いの源となりました。


(黙想)

  • ヒゼキヤは25才で王となり、在位は29年。これから考えると病気になったのは39歳の時です。この年齢で死ぬのは辛いです。神に癒やしを切に祈るのは理解できます。彼は祈る時、自分がいかに神さまに忠実に歩んだかを訴え、祈りを聞いてもらえるように神に切に、そして涙を流しながら祈りました。
  • 神はヒゼキヤ王を憐れみ、寿命を15年延ばすこととしました。なぜ15年なのか。分かりません。その当時の平均寿命なのかもしれません。
  • バビロン王がヒゼキヤに見舞いの使いを送りました。なぜバビロンの王が、と疑問を持ちます。アッシリアはやがてバビロンに滅ぼされることを考えれば、バビロン王は西方に進出する野心を持っていたと想像できます。
  • ヒゼキヤはその使いに王宮の宝物庫にある宝を見せました。いや見せびらかしたと言ってよいと思います。そこにはヒゼキヤの誇らしげな思い、つまり高慢が垣間見えます。それ故、神はそれを咎めました。やがてそれらの宝がすべてバビロンに持ち去られる日が来ること、ヒゼキヤの息子の中にはバビロンに連れて行かれる者がいると神はヒゼキヤに告げました。これを聞いてもヒゼキヤは、自分の高慢を悔い改めることなく、自分が生きている間は、国は安泰だと考えました。自分が死んだ後のことは気にしなかったのです。つまり、「後は野となれ山となれ」の気持ちだったのです。
  • ヒゼキヤは自分が死の病になった時は、自分がいかに忠実に神の前に歩んだかを訴え、いやしを求めましたが、その後の彼は、神の前に真実に歩んだとは言えません。彼は不用意な行為(王宮の宝を見せたこと)を悔い改めるべきでした。


(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • 神さまは憐れみ深い方です。死の病の中でいやしを必死に祈るヒゼキヤを神は憐れまれました。
  • 神さまは高慢を嫌う方です。自分の持つ宝を見せびらかす行為は自分を誇る高慢に他なりません。

☆神が求める私たちの生き方

  • (悔い改め)悔い改めるべきことがあればすぐに悔い改めること。ヒゼキヤは、自分の行為がもたらす結果を聞きながら、悔い改めることをしませんでした。
  • (警告)自分の死んだ後はどうなってもよい、後は野となれ山となれ、の態度は無責任です。


(神の導き)

祈り

  • 天の父なる神さま、ヒゼキヤは高慢に陥りました。ヒゼキヤの治世の最初、あなたに忠実に歩み、「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」(列王記下18:7)とあります。成功は人間を高慢へと導く誘惑にもなります。彼は自分の不用意な行為を悔い改めることなく、自分の在世中は安泰ならそれでいいと無責任な態度に出ました。
  • 私は今牧師の務めから引退しました。教会の働きに責任を負うことから解放されました。自由な時間も増えました。今までできなかったことができるようになりました。今までできなかったことができるようになる、それは引退した者への恵みだと思います。でも福音を伝えることに召されたことは引退しても忘れてはなりませんね。
  • 今日の聖書は、引退したのだから、もう日本の伝道のことは考えなくてもよい、一人の信仰者として生きればよい、第二の人生を生きればよいと考えることが、ヒゼキヤの無責任な態度に通じることを思いました。幸いに、引退した今、私は別のかたちで福音宣教の働きを担う歩みをするように導かれています。インターネット上に新しいサイトを開設することは私にとって福音宣教の試みであり、今日の聖書に励まされる思いをしました。終わりの日まで神さまに忠実に歩みなさい、と励まされました。
  • 今、新しいサイトの仕上げに向かっていますが、今日も新しいページを作成したいと思います。また先日、隠退した牧師の集いに参加してきました。多くの方が初対面でしたが、皆さんそれぞれに、神さまと教会に仕える歩みをしていることを知りました。この先生方のことを覚えて祈りたいと思いました。集いのときの写真が送られてきたので、名前と顔を確認できます。先生方の健康を働きを覚えて祈ることにします。

☆与えられた導き

  • 新しいサイトに、新しいページを造る
  • 隠退された先生方を覚えて祈る。