クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 (2007.4.1)

コリント一3:18〜23 愚か者になろう
コリント教会は、内部に対立争いがありましたが、パウロは、あなたたちは愚かな者になりなさい、と教えます。それは神の前に知恵ある者となるためです。
キリスト教には、様々な教派があります。それまであったものから分かれて新しいものができるという形で教派ができました。だから

「キリストはいくつにも分けられてしまったのですか」(コリント一1:13)

とあるようにこれを分裂と考える人がいます。

 教派は多いです。これを分裂ではなく、多様性と見る人もいます。人間は、神様のことを全て理解することはできません。聖書の解釈もいろいろです。理解に相違が生まれます。ある枠の中で多様性が許されると私は考えています。教派、教会はそれぞれの個性を持ちつつ、使命を果たすものと考えることができます。

 今日の聖書には、

「本当に知恵ある者となるために「愚か者になりなさい」(18節)

とあります。

「人間を誇ってはならない」(1節)

と自分の知恵・賢さを誇るなと戒められます。人は誰だって自分を誇りたいのです。その証拠に、人は「プライドを傷つけられた」と怒るのです。

 「本当に知恵のある者となるため、愚かな者になりなさい」。自分には知恵があると思っている人たちは、互いに主張をぶつけ、対立が生まれます。自分の主張を通したいからです。しかし、この世の知恵、人間の知恵は、神の前では愚かなものだ、とパウロは述べます。その証拠に、

「世は自分の知恵では神を知ることができなかった」(1:21)

のです。

 そこで知恵ある者になりたいなら、神の知恵を求めなさい、神の知恵であるキリストから学びなさい、と教えるのです。

 聖書には逆説的な教えがあります。知恵ある者になるために、愚か者になりなさいもそうです。人間が普通に考えるのとは反対の考えですね。他にもあります。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)。

信仰に入ると、神を第一としなさい、神中心に生きなさいと教えられます。多くの人は自分のことを第一にします。それが当たり前だと思います。それなのに神中心、神第一の生活をしなさいと聖書は教えます。それが自分を生かす生き方だというのです。なのに神様を信じても、自分のことを優先する人は少なくないのです。

それはなぜかというと、逆説というのは、実行してみないと本当かどうかわからないからです。試さない人は、それが私たちの考えと逆だから、本当だと理解できないのです。

神中心、神第一に生きる人が、神から豊かな祝福を受ける人、これは本当です。本当だと私は証言します。聖書の逆説的な教えは、試してみる価値は十分あると私は証言します。

今日の聖書は、真に知恵ある者になるために、愚か者になりなさい、人間の知恵を誇るなと教えます。これも逆説ですが、真理だと私は証言します。私は聖書を読み、聖書の教えに従って生きてきて、よかったと思っています。自分が考えることよりも、神様の言葉の方が賢いと認めます。だから聖書を読むことが喜びです。

聖書の最初に、アダムとエバが登場します。彼らは、神の教えよりも自分の考えを優先した結果、罪を犯しました。高慢の罪です。
だから

「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)。

 神の言葉を学び、これに従う人が、本当に知恵のある人なのですね。

 人間を誇ってはならない、と語った後、パウロは、

「すべてはあなたがたのもの」

と語ります。どういう意味でしょう。この世は、自分のものではないものだらけ。欲しいものがいっぱいあります。これと同じ表現をパウロは2回使っています(ローマ8:32 コリント二6:10)。それを考えると、クリスチャンは本当に大事なものを持っている、だからすべてのものを持っているに等しいとの意味ではないか、と考えます。そしてパウロは、すべては神のものと述べます。

 ですから、教会は神のものです。しかし神は、教会の働きを人間にゆだねています。神の教会ですから、人間は勝手な活動をすることはできません。教会の働きを考えるとき、人間の知恵ではなく、神の言葉に聞く必要があります。

 そこで問題となるのは、神学とか伝統といわれるものです。金沢元町教会は長老派の伝統を持つ教会ですから、教理はカルバンの神学に立つ教会といえます。長老による教会の運営の仕方をしています。神学も伝統も人間が生み出したものです。聖書を土台にして生み出されたものなので「人間的な知恵」とは言い切れないのですが、聖書ではないので、人間的な知恵になる危険もあります。常に聖書に聞いて、教会を考えることは大切なことです。

 2007年度の教会の活動の根底におく聖書の言葉は

「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(コリント一3:9)
です。

 教会がしっかり立ち続けるためには何が必要でしょうか。私たちの生活を脅かす地震が起きました。しっかりとした土台。しっかりした骨組みの建物を建てることが大切なことを知らされます。

 教会もまた同じです。しっかりした土台、しっかりした骨組み、しっかりした教会員。これが堅固な教会です。どんな骨組みにして、どのようにしてしっかりした教会員を育てるか、この一年の課題です。

御言葉に聞く、神の前に知恵のある人になって教会を築いていきましょう。