クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.5.13)
コリント一 5:9〜13 自分を清める教会

 今日の聖書は、

「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」

と教会の中で悪を行った人を裁きなさいと命じられる。さらに、はっきりと

「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」

とまで命じられています。世間でも行われないみだらなことが教会の中で行われていたのです。

〜〜〜聖書 コリント一 5:9〜13〜〜〜

5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、

5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。

5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。

5:12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。

5:13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

 11節でパウロは、

「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」

と語りました。

 一緒に食事をする、これは親しい交わりを意味します。忌まわしいことを行う人たちと交わりをもってはならないとパウロは語ります。そのような悪を行う者を除き去りなさいとまで命じます。

 ここで列挙される悪徳については、旧約の律法と関連があります。たとえば

「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:22)。

ここには

イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」

とあります。13節と似た表現です。
イスラエルでは、その他、偶像礼拝へ誘う者、人を悪く言う者=裁判で偽証する者、人の物を奪う者=誘拐する者、酒におぼれる者は、「あなたの間から悪を取り除かねばならない」とされています。

 イスラエルは神に選ばれた民でした。神の民としてふさわしくなければなりません。そのためには悪は取り除かねばならなかったのです。

 私たちの社会でも、平和な社会といわれるためには、秩序、平和を乱す者を社会から取り除き(裁判で刑務所に送る)、社会の平和を確保します。取り除けない社会は、物騒な社会といわれます。イスラエルが神の民であるなら、悪を行うものを取り除く必要がありました。

 教会もキリストの体と呼ばれ、また神の神殿とも呼ばれるので、悪を行うものを除き去る必要があるのです。

 ところで、聖書には

「人を裁いてはいけない」

という教えもあります。裁いてはいけない理由の一つは、私たちも同じことをしている可能性があるからです。もし私たちが自分も同じことをしていながら、人を裁いたら、神さまが私たちを裁くからです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)とイエスは命じています。私たちは、裁く前に我が身を省みる必要があります。

 今日の聖書は、悪を行う人を裁き、教会から除き去ることを命じています。教会が聖なる教会となるために必要なことです。

「そのような人とは一緒に食事もするな」(11節)。

これは、まず交わりをしないことを意味します。悪を行った人が、気づき、悔い改めるのを促すのです。あまり実行されませんが、教会では、聖餐停止、という戒規処分をすることがあります。聖餐の交わりにはいることを許可しないのです。「あなたはこういう過ちを犯したので聖餐停止の戒規に処します」と言って、悔い改めを待つのです。悔い改めれば、聖餐に預かることが許されます。「悪を行うものを取り除く」と言っても、除名という形で追放する場合と、悔い改めに導く場合があるのです。悔い改めを求めることが優先するのは言うまでもありません。

 聖書に書かれている問題は、私たちにも関わりがあります。私たちはこの世に生きていますから、性的な誘惑、物欲への誘惑、偶像礼拝への誘惑、自分を守るために人を悪く言ったり、ストレス解消のためにお酒に逃げたりする誘惑にいつも囲まれています。

 いつ何時、私たちが、みだらなことを行う者、強欲な者、偶像礼拝をする者、人を悪く言う者、酒におぼれる者になりかねないのです。

 細木数子の「ずばり言うわよ」、江原啓之という人が出る「オーラの泉」とか言う番組は、気をつけなければなりません。興味半分でも見ないのが賢明です。聖書的でない考えが私たちの心に侵入してきます。

 誘惑は目を背け、拒否するのが最善です。いかにして誘惑に勝つか、それは時間がないので話せませんが、誘惑に勝利する必要があります。

 教会は聖なる教会だと私たちは信じます。聖なる教会であることを目指します。聖なる教会だから、悪いものを取り除くわけです。

 教会は聖人の集まりではありません。罪を犯す人の集まりです。これらの誘惑に負けてしまい罪を犯す人たちがいてもおかしくないのが教会です。これらの罪を犯す人を簡単に排除したり、受け入れようとしないのは、教会ではありません。排除したり、受け入れようとしない誘惑もあります。

 このような悪を行う者も受け入れて悔い改めに導く教会がキリストの教会です。今日、自助グループの働きが盛んです。アルコール、薬物などの依存症の人のグループ、愛する家族を亡くして悲しみから立ち直れない人たちのグループ、引きこもりの子供を持つ親のグループなど。色んな自助グループがあります。そこでは、自分のことを正直に語るのです。自分のしたこと、自分の気持ちなど自由に語るのです。そして誰も裁きません。お互いにただ聞き、受け入れるのです。決して裁かないし、グループ内で話されたことは口外しません。

 ありのままの自分が認められるとき、人は、自由になっていくと言われています。教会は、罪の束縛下にある人々の集まりです。小グループの交わりの中で、互いに裁かず、正直に語り合える時、誘惑に打ち勝ち、罪を克服し、罪から解放される道が開けます。このような解放が起きる教会が、聖なる教会だと信じます。

 悪を行うものを除き去る方法は、悔い改めに導くことが優先です。それが不可能なとき、除名するのです。神の建物、神の神殿である教会のなすべきことを教えられます。神の家族としての心の開かれた交わりの形成に自分も参加しましょう。