本日のメッセージ(2007.10.21)
コリント一11:27〜34 主の体をわきまえて
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
主の晩餐のことを私たちは聖餐式と呼びます。
「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は主の体と血に対して罪を犯すことになります」(27節)。
ここで罪は、主の体と血に対して罪を犯すとあります。罪というと間違った行為をする、悪事をはたらくと考え、私たちは行為に注目します。ここでは、誰に対する罪かが問題とされています。「主の体と血に対して」つまりキリストに対して罪を犯す、キリストを侮辱することになると言われています。
旧約聖書にヨセフという人物が登場します。彼は20才前に、エジプトに奴隷として売られ、エジプトの宮廷の役人の家で働きます。彼は顔も美しく、体つきも優れていました。イケメンでした。自分の仕える役人の妻からヨセフは誘惑を受けます。彼はきっぱりと誘惑を拒みます。
「あなたはご主人の妻ですから、私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」。
姦淫は罪です。ヨセフは「神に対して罪を犯すことができましょう」と述べます。罪を犯す時、悪いことを行うのですが、その時、神との関係を悪くすることを思わなければならないのです。
罪は神との関係で考えるべきものなのです。
聖書は、私たちを罪の奴隷と呼びます(ローマ6:6,17)。罪の奴隷とは罪以外のことはしない、できないとの意味です。皆さんは、自分が罪の奴隷だと思いますか。多くの人は、自分が罪深いとは思っていないのです。それはなぜかというと、自分はいつも罪を犯しているわけではないし、善人として生きていると思っています。
聖書が罪を語るとき、私たちと神との関係がどうなっているのかを考えているのです。サンデイクリスチャンという言葉があります。月曜から土曜までは神を忘れて生きています。でも日曜だけ神を思い教会に行くのです。つまり一週間の大部分は神を忘れて、無視して生きているのです。悪事は働かなくても、神を無視するという罪を日々ずっと犯していることになります。ひどいですね。神を無視していることに気づきさえしない。あなたが神を無視して生きていれば、それだけで罪人です。家庭で、職場で、周囲の人からあなたが無視されつづけたら、あなたはどう感じますか。
ふさわしくないままとはどんなことでしょう。聖餐で食べるパン、それは裂かれたパンです。一つであったパンから裂かれたものをいただきます。一つのパンを皆でいただくとは、聖餐を受ける信仰者の群れが一つであることを示しています。信仰者は一つであることをわきまえない、それがふさわしくないということ。主の体をわきまえないということです。
コリントの教会では、主の晩餐を受けるとき、裕福な者たちは満腹し、ある者は酔っていました。貧しい者たちは空腹のままです。貧しい人たちへの配慮が欠けている教会の実態があったのです。互いに愛し合うことで一つの教会になっていなかったのです。
ふさわしくないといことについてのもう一つの意味。時に人は、罪を犯す自分は聖餐にふさわしくないと考えるのです。罪を犯していない正しい人が聖餐を受けるべきだと考える人がいる。
聖餐は主の死を告げ知らせるものです。キリストの死は、私たちの罪を赦し、私たちを罪から解放するものです。キリストの死を告げ知らせる聖餐にふさわしい人は、罪を犯さない人ではなく、自分は罪の赦しを必要とする者、罪からの解放を必要とする者であることを自覚する人です。
「誰でも自分をよく確かめた上でそのパンを食べ、その杯から飲むべき」(28節)。自分は罪の赦しを必要とする者、罪からの解放を必要とするものであることを思う人がふさわしいのです。
ふさわしくないまま飲み食いする人は裁きを自分に招くとあります。コリントの教会では、ふさわしくないまま聖餐を受け、病気になったり死んだ人がいるというのです。キリストを侮辱し、神の懲らしめを受けたというのです。
日本基督教団では、ふさわしくない聖餐を行っている教会があります。未信者はパンを食べてはいけない、ぶどう酒を飲んではいけないというのは差別だというのです。礼拝に来る人は皆、パンとぶどう酒を受けるように勧めるのです。これは主の体をわきまえない暴挙です。見かけ上の一致を求めるだけで、キリストの死を無視しています。罪を犯す私たちが罪赦され、愛する者へと変えられ、互いに愛し合う群れになるという信仰の歩みを全く考えていません。
本来聖餐は、裁きを飲み食いするのではなく、恵みを飲み食いするものです。
「皆さん、あなたは天国に行けると確信がありますか」。
案外、確信があるという人が少ないのです。なぜなのか、と考えます。
イエス・キリストを信じる人は義とされる、イエスを信じて洗礼を受ける者は救われると聖書に約束されています。だから、イエスを信じ、洗礼を受けているなら、救われるのは確かであり、天国に行けるのも確かなのです。ここで聖餐が信仰の訓練、恵みを受け取る訓練となります。
私たちがパンとぶどう酒を食べるのが確かなように、キリストは私たちのために死んだのも確かなのです。私たちがパンとぶどう酒を受けるのが確かなように、私たちが救われるのも確かなのです。恵みによって救われていること、恵みによって天国に行ける者とされた恵みを飲み食いするのが、この聖餐です。
聖餐を受ける都度、救いの確信を確かにしましょう。私たちは恵みを飲み食いしているのです。