クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.12.9)
コリント一13:4〜7 愛は忍耐強い

 皆さん、夫や妻がいらいらしていて八つ当たりされたらどうしますか。前の口語訳聖書では「愛は寛容である」と訳されていました。忍耐強いと訳されているギリシャ語は、

「すぐには怒らない」

という意味です。

 子供が何か間違ったことをすると、我々はついすぐ怒ります。子供を正そうとするのですから当然と思います。

「駄目じゃないか、そんなことして!」。

しかし、子供が自分の思い通りに行動しないことにいらだって怒ることもしばしばです。そこには愛はなく、あるのは親の面子です。多くの場合、怒って相手の間違いを正そうとしても、相手は反発します。

 忍耐強いとは、すぐに怒らないことです。そんなの「おかしい」と人は言うでしょう。ではなぜ、すぐに怒らないのでしょうか。それは、

相手に自分の間違いに気づかせ、自ら過ちを正そうとする思いを起こさせるためです。

そこには愛があり、憐れみがあるのです。
相手が自分の過ちに気づき、自ら正すのを待ちます。どうしても自分を正そうとしない時には、その時には怒るのです。元来この忍耐強さは、神様のもつ性質です。
 神は忍耐強い方です。具体的な例は、出エジプト記に示されています。昔イスラエルの民はエジプトで、奴隷として苦しい日々を何十年も送っていました。イスラエルの民を救うために神は様々な奇跡を行いました。それで災いがこれ以上起こらないようにと、エジプト王は、イスラエルにエジプトから出て行くように命じました。イスラエルは解放されたのです。

 約束の地を目指し、イスラエルの民が海辺で宿営していた時、エジプト軍が追いかけてきました。その時、民は何と言ったのでしょうか。「ここで我々を死なせるのか」と指導者モーセに文句を言ったのです。神は、海を二つに分ける奇跡を行いイスラエルを救いました(出エジプト記14章)。

 しばらく旅をすると食べ物がなくなりました。「私たちを飢え死にさせようとするのか。エジプトにいた時は、肉鍋を食べることができたと」と文句を言います。神は天からパンを降らせてイスラエルの民が飢えないように守りました。さらに飲み水がなくなりました。「我々を渇きで殺すのか」と民は文句を言います。神は民が神に信頼せず、文句ばかり言うのを忍耐し続けたのです。

「エジプトであれだけ奇跡を行ったのに、なぜ私に信頼しないのだ!」

と神は怒ることができたのですが、怒らず、

民が信頼するのを待ち続けた

のです。

 神の忍耐が限界に達しました。イスラエルの民がシナイ山の麓に来た時のことです(出エジプト32章)。神は10の戒めを彼らに与えました。2番目の戒めは、神の像を造ってはならないとの戒め。ところが、すぐにイスラエルの民は、金の子牛の像を造ってしまいました。ついに神の怒りが爆発します。

「わたしはこの民を見てきたが実に頑なな民である」(出エジプト32:9)

「私の怒りは彼らに対して燃え上がっている」

 聖書はイエス・キリストの忍耐も書いています。使徒パウロが述べます。

「わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(テモテ一1:16〜17)。

パウロはクリスチャンを迫害し、獄に捕らえ、殺そうとしていた人物です。イエス・キリストパウロに限りない忍耐を示したとあります。クリスチャンを迫害するパウロを怒らず、報復せず、忍耐を示し、パウロ使徒にさえ召したのです。それはイエス様を信じて永遠の命を得ようとする人々の模範となるためだというのです。

 パウロに限らず、罪を犯す人々が悔い改めるのを忍耐強く、キリストは待っておられると言うのです。キリストはパウロを愛し、彼を使徒とするために、忍耐強く待っていたのです。神の忍耐には、憐れみ、愛が伴っているのです。だから愛は忍耐強いのです。愛は寛容なのです。

 私たちが感情的に怒る時、そこには相手に対する憐れみ、愛はありません。まずは、自分の憤りの気持ちを発散させたいだけです。このような忍耐強さは、神の性質です。人間が持つことができないものです。

 しかし、罪赦され、神に愛され神の子とされた信仰者には、忍耐強くあることが求められます。聖霊により、愛が私たちの心に注がれているからです。信仰者が神の子にふさわしい者となるためです。

 イエス様のたとえがあります。マタイ18:21以下。王の家来が登場します。王の家来は王から莫大な借金をしています。王から返済を求められます。

「彼は待ってください」

と願います。(待ってくださいは、忍耐強いという言葉が使われています)。莫大な借金は一生かかっても払いきれるような額ではないのです。驚くことに王はその借金を帳消しにします。

 この家来が宮殿から外に出ると仲間に出会います。お金を貸しています。たいした額ではありません。返済を求めます。仲間は言います。「待ってください」。家来は赦しません。牢に入れたのです。

 それを聞いた王は、その家来を赦さず、牢に入れました。この家来は、借金の返済を待ってもらうどころか、帳消しにされたのです。仲間に対するわずかなお金の返済を待たなかったのです。忍耐強く待たなかったのです。仲間に対して忍耐強くあるべきでした。
このたとえは、信仰者が、他の人に対して忍耐強くあるべきことを教えています。それは神の愛を受けた者として、他者に対して愛を示すべきだからです。

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(テサロニケ一5:14)。

「 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(コロサイ3:12)。

具体的に考えましょう。
たとえば夫に八つ当たりされたらどうしますか。一つの提案です。
感情的な反発、感情的に怒ることは、忍耐強いことではありません。ただ我慢すればよいのですか。忍耐強いとは怒らないことを意味しません。相手が自分の非に気づき、それを改めるのを待つのです。
相手が冷静に自分の話を聞ける時に、次のように語ります。「あなたが私に八つ当たりして、私は辛かった。悲しかった。残念に思う」と述べるのです。アイメッセージです。相手を責めていません。自分の気持ちを告げるのみ。そこで相手がどうするか、待つ。神に祈りつつ。
謝るのを待つ。愛をもって待つ。相手が応答しなければ、一回は、そのままにしておく。次にまた八つ当たりしたら、同じことを繰り返す。三度目に相手が謝るのを待っても応答しないなら、その時は怒ります。でも感情的に怒ってはいけません。
「あなたってひどいわ。牧師先生から、忍耐強くなりなさいって教えられて私はその通りにしてきたのよ。あなたってひどいわ。私は怒っているのよ」と泣きながら、冷静に言えばよいです。
それでも謝らなかったら、神さまに文句を言いましょう。そしてまた忍耐強く、接しましょう。神さまには祈り続けましょう。
人からの不当な行動に直面した場合。感情的にならずに、「残念です。辛いです。不愉快です」などと自分の気持ちを伝えましょう。そして相手の反応を祈りつつ待ちましょう。

忍耐強いとは、怒るのを遅らせること
相手が謝るのを待つこと。チャンスを与えること
最後に怒ること。怒ってはいけないということではない。

忍耐強くなれない、寛容になれないといっては、いかんよう。