クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 朝9時から入門コース。求道者のAさんは神を求めている。本を学びながら信じるようになるのを忍耐強く待つ。人生経験が豊かな方で、聖書の語ることについて、色んな思いを持つ。学びの中で、ぶどう園と農夫のたとえを読んだ。マタイ21章。彼は自分の感想を話す。聖書を読んで感じることができる、感じたことを話すことができる、それは素晴らしいことだと思う。でも自分が感じたこと、思ったことを話すだけでは信仰には至らない。牧師としては、祈りつつ、信じる時の来るのを忍耐強く、待つしかない。人の人生を変えることにもなることだから、忍耐をもって待つのが学ぶ人に敬意を払うことになると思う。変に説得することはしない。


 終わって、昼食まで少し時間があったので、夕日寺の里山を散歩する。スミレがあちこちに咲いていてきれい。絨毯みたいに咲いているところは美しい。でもひっそりと咲いている。飾らずに、人に見せるでもなく、咲いている。実際にスミレを見に行く人は少ないだろう。これ見よがしに咲く花もあれば、桜のように、人が求めて見に行く花もある。僕は、スミレのように目立たず、咲いているのが好きだ。多分、自分も目立ちたいとは思わないからと思う。


 昼食後、教会員のAさんが訪ねてきて近況と悩みを語られた。じっくり話を聞いて、聖書の言葉を紹介し、祈った。終わって、見舞い。最近ずっと見舞っている教会員のBさん。様態はよいとは言えない。


 お見舞いの頻度ということを考えてしまう。教会員のDさんが倒れた時は、一日おきに通って、癒しを祈った。意識不明の状態が続き、医師は回復の見込みがないような診断をしていたが、癒しを祈り続けた。通い続けた。


 「見舞わなければ」と考えると苦痛が生じる。牧師としてすべきことは他にもたくさんある。時間は限られている。そんな苦痛も感じながら、今は、喜んで見舞いに行くことが大事と考えている。イエス様のように愛するなら、どうなのだろう? もっと頻繁に見舞うべきなのかどうか、そんな問いを胸に秘めつつ。


 帰りはCLCに寄って小型の聖書を買った。見舞いに持って行く聖書として。今まで使っていた聖書は背表紙がはがれてしまったので買い換え。信徒の友の四月号、俳句と短歌の欄に妻の母の名があったのでこれも購入。選外佳作。母は楽しみに投稿している。


 夜は教会の資料を作成。ドラマ「相棒」を見て寝る。