本日のメッセージ(2009.9.6)
聖書 ヨナ書 一章 ヨナを遣わす神
1.聖書が告げる神は、我々に呼びかける神である
「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」(1節)。
続いて
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」(2節)。
神はヨナに呼びかけたのです。大いなる都、ニネベの町に行って、神からの警告の言葉を語るように、神はヨナに命じたのです。私たちが信じる神は、人間に呼びかける神、語りかける神です。
神はノアに語りました。
「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい」(創世記6:13)。
神はアブラハムにも語りました。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(創世記18:20〜21)。
その他、モーセや、イザヤや、エレミア、色んな人に神は呼びかけました。イエスは、漁師のペトロに「わたしについてきなさい」と呼びかけました。私たちが信じる神は、私たちに呼びかける神、語りかける神なのです。神を信じるとは、神が語りかけてくださると信じることです。神様は私たちにも呼びかける方です。
皆さんは、神様の呼びかける声を聞かれたでしょうか。この耳に直接聞こえる形で、神様の声を聞いた人は少ないと思います。神様は、たいてい、私たちの心にささやかれます。信仰を持っている多くの人は、信仰者として生きていきなさい、洗礼を受けなさい、との促しを聞いたのではないでしょうか。
神様の呼びかけは、信仰に入る決心の呼びかけだけではありません。普段、聖書を読む時、説教を聞く時、神は語りかけているのです。聖書に書かれている教えもまた、神の呼びかけとして聞くことができるし、聞くべきなのです。その時、神の呼びかけを聞くことができるかどうか、それが問題です。主イエスは言います。
「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:9)。
神様が呼びかけたなら、それに答えることが大切です。神様が私に呼びかけてくださる、それは喜びです。そして私たちが応答する、それは神の喜びです。神は私たちを愛して呼びかけ、私たちは神を愛して答えるのです。あなたは神の呼びかけに答えていますか。最近、いつ神の呼びかけを聞き、どう応答されたのでしょうか。
2.聖書が告げる神は、生ける神である
神の呼びかけを聞いたヨナはどうしたでしょうか。
「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」(3節)。
彼はニネベに行きなさいと神から呼びかけられたのですが、ニネベとは反対の方向に逃げようとしました。彼はタルシシュ行きの船に乗り込みました。そして「人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった」。「人々に紛れ込んで」というのは面白い表現です。果たして、人混みに紛れて神から逃げられるのでしょうか。
「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」(4節)。
神はヨナを逃がしません。ヨナが乗った船は大荒れの海の中で、難破しそうになります。
「 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」(5節)。
船乗りたちは、それぞれ自分の神に助けを求め、積み荷を海に捨てて船を軽くして、難破を逃れようとしました。しかし何の役にも立ちません。
そこで「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう」(7節)。人々は、突然の大荒れには理由があるはずだ、船に乗っている誰かのせいなのだ、といわば犯人を捜そうとします。「そこで、くじを引くとヨナに当たった」。ヨナが原因で海が大荒れになったことが判明しました。
人々は言います。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか」(11節)。するとヨナは言います。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」(12節)。人々がヨナを海に放り込むと、海は静まりました。
聖書が告げる神、私たちに呼びかける神は、生ける神です。生きて働く神です。この神は、大風を送り、船を難破の危険に遭わせました。人々がくじを引いた時、ヨナにくじが当たるようにしました。乗組員が陸に戻ろうとしても海をますます荒れさせ、戻らせませんでした。ヨナが海に放り込まれると大風はやみ、海は静まりました。みな神の働きです。
この神こそ、生ける神、まことの神なのです。船乗りたちは、自分たちが信じている神に助けを求めましたが、助けてくれませんでした。それは偶像です。人間が造り上げた神です。真の神はただお一人しかいないのです。私たちが信じる神は、生きて働く神、この世界の中で働かれる神なのです。
3.ヨナを捕らえて放さない神
神の命令から逃げたヨナを神はなぜ追いかけたのでしょうか。神は別な人を選んでニネベに遣わしてもよかったのです。もしヨナが、人間的な思いで逃げたとしたら、どうなったでしょうか。つまり、ニネベに行くのは大変だとか、自分にはできないとか、自分には他にやりたいことがあるからとか、そんな思いで逃げたとしたら、きっと神様は、別な人間を使者として遣わしたのではないか、と思います。呼びかけても、呼びかけをきちんと受けとめてくれない人を、神は顧みないと思います。神からすれば、呼びかけても無視する人をどうして顧みる必要があるでしょうか。
では神はヨナをなぜ、放置しなかったのでしょうか。ヨナは、人間的な思いで逃げたのではありません。ヨナにくじが当たった時、ヨナはこう言いました。
「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」(9節)。
ヨナははっきりと、自分は神を畏れる者だと述べているのです。神の命令に逆らっているという後ろめたさは少しもありません。ヨナは、人間的な思い、いい加減な思いで逃げたのではありません。
神から呼びかけられた時、ヨナは、ニネベに行くことが納得できなかったのです。そのことを彼は祈りの中で神に告げました。4章に書いてあります。ヨナは神と議論をしたのです。でも納得できなかったのです。
そこで彼は、自分の信仰的信念に基づいて、行動したのです。神の言うとおりにはできない。そしてニネベとは反対の方向に行ったのです。そしてヨナの信仰的信念が非常に強いものであることは次のことでわかります。ヨナは自分のせいで、海が荒れたことを知っています。
「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか」と言われました。私だったら、多分、「神様赦して下さい。ニネベに行きますから、海を静めて下さい」と言うでしょう。とりあえず、「赦して下さい」と言って難破の危険から脱出を測るのです。そして海が静まったら、渋々ニネベに行くのです。しかしヨナは違います。
「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」(12節)。
自分を海に放り込めと言うのです。私には口が裂けても言えないような言葉です。思いつきもしない言葉です。ヨナは自分の信念を曲げるくらいなら、死んでもよいというのです。命を犠牲にしても、自分の主張は曲げない、恐ろしいほどの信念を持った信仰者です。ヨナは。ニネベに行くことに対して、死んでも行かない、と抗議をしているように思えます。
神はなぜ、ヨナを放置せず、追いかけたのでしょうか。神様は、ヨナに御心を理解して欲しい、そう思ったに違いありません。祈りの中での神とヨナの議論では、ヨナは納得しませんでした。神は、ヨナに神の心を知って欲しかったのです。
神の呼びかけに応答していく時、神は深く私たちを捕らえ、私たちを放さないのです。そして、ご自身のみ業を見せてくださるのです。神の呼びかけに答えること、神に遣わされることは感謝なことなのです。
聞く耳を持つ者は聞きなさい、と主イエスは言いました。神様の呼びかけを受けとめることのできる聞く耳を持ち、神の呼びかけに応答していきたいと思います。神の呼びかけに答えて生きる信仰者として歩んでいきましょう。
・あなたが応答した神の呼びかけはどんなものでしたか。