クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.4.18)
聖書 ヨハネ 4:7〜30 人とのつながりを再発見する(1)


 イエスは、ユダヤを去ってガリラヤへ行かれました。途中サマリアを通ります。サマリアの町の近くにある井戸でイエスは休みます。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」(6節)。弟子たちは町に食べ物を買いに出かけてイエスが一人で井戸のそばで休んでいました。


 ここには一人の女性が登場します。名前は書かれていません。私たちはこの女性を「サマリアの女」と呼びます。彼女は井戸の水をくみに来ます。時間は正午過ぎのことです。多くの女性は朝とか夕方に水をくみに来ます。そしてきっと井戸端会議をします。それは女性たちの楽しみでもあったことでしょう。サマリアの女が正午頃に来たということは、誰にも会うことがないように、という思いのあることがわかります。井戸で誰かと鉢合わせることを彼女は避けたのです。誰も井戸に来ない時間を見計らって、つまり正午頃に井戸に水をくみに来たのです。


 するとそこにはイエスがいました。サマリアの女とイエスとの出会いが起こります。イエスが言います。「水を飲ませてください」。すると女は答えます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この女性の言葉には歴史的な背景がありますが、これについての説明は割愛します。


 このサマリアの女の言葉がきっかけとなって、イエスとの会話が始まります。会話のテーマは水です。女は井戸からくむ水のことしか考えていません。イエスは、ご自分が与える「生きた水」について話します。話が噛み合いません。イエスの与える水は喉の渇きを癒す水ではなく、心の渇きを癒す水です。その水を飲む者は永遠の命を得るというのです。イエスは女が自分の心と向き合うように導きます。そこでイエスは言います。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。

すると女は、

「わたしには夫はいません」

と答えます。さらにイエス

「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」。

 イエスサマリアの女性の弱点を見抜いてそれを指摘しました。この女性は、何回も結婚をしています。結婚を何回も繰り返す、それが彼女の評判を落としました。このために彼女は町の人々との交際をしなくなりました。問題のある人間と見なされるようになったのです。彼女のその弱点をイエスはずばりと語るのです。女は驚き、

「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」

と答えます。さらに礼拝をめぐって会話が続きますが最後に女が言います。

「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」

(25節)。するとイエスは、

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」

と答えます。そこに弟子たちが買い物から戻ってきます。これを機会にこの女性は、町に戻ります。水がめを置いたまま町に戻ります。イエスのことを伝えたいという思いで気持ちがせいていたのです。


彼女は町に行き、

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29節)。

 普通の文章ですが、ここで立ち止まらされます。町の人は皆彼女のことをよく思っていません。何回も結婚を繰り返し、今連れ添っているのは夫ではないのです。彼女は、町の人々が自分をよく思っていないことを知っています。だから人目を避けてお昼頃に井戸に水をくみに来ているのです。町の人々を避けて暮らしている彼女が、町の人々の中に飛び込んでいくのです。彼女は語るべきメッセージを持っていたので、人目も気にしないでそのメッセージを伝えたのでしょうか。彼女が伝えたメッセージ、それは

「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」。

 「もしかしたら」。彼女が伝えたメッセージはあやふやなものです。何が彼女に、町の人々に語るという積極さを与えたのでしょうか。


 この礼拝堂にいる大半の人たちはメシア救い主イエスを信じています。「もしかしてイエスはメシアかもしれません」というあやふやな思いではなく、イエスは救い主と信仰の告白をして洗礼を受けています。洗礼を受けた皆さんは、町に行って人々にイエスはメシアです、と伝えたでしょうか。家族や友人にイエスが救い主だと伝えたでしょうか。


 サマリアの女は町の人々に、自分は人からよく思われていないことを承知の上で、イエスのことを伝えたのです。何かが彼女に起きた、イエスとの出会いにおいて何かが彼女に起きたのです。それは何でしょうか。


 今、説教では信仰の成長というテーマを掲げています。今までお話ししてきたことは、自分を束縛するものからの自由でした。


 私たちは自分と他者を比較し、その結果、心が不自由になっています。たとえば劣等感にとらわれたり、自分は駄目な人間だと自分を卑下したりします。あるいは人を妬んだり、うらやんだり、高慢になったりします。そういう気持ちから私たちは自由になれないでいます。他者との比較は、私たちを不自由にします。比較は罪であることを覚えなければなりません。罪だから悪い結果をもたらすのです。神は私たち一人一人を貴い存在として作り、それぞれ個性ある存在として造られたのです。私たちは相互の違いをそのままに認めるだけのことです。比較するのは罪です。


 あるいは人や物に振り回される人生を送っているかもしれません。あの人のせいで自分の人生はこうなってしまった、と自分の人生の不幸、うまくいっていないことを他人のせいにするのです。つまり人に振り回されて生きているのです。赦しが必要です。赦せない思いが振り回される結果を生み出します。人が私に何をしようと、私は御言葉に従って生きる、と決めれば自由に生きることができます。人を責めたり怒る心を赦しによって捨てるのです。困難です。困難という代償を払う時、自由が得られます。人に振り回される、これもまた罪のなせる業なので悔い改めなければなりません。神はみ言葉をもって私たちを導かれるからです。神の導きの言葉を知らないから振り回されるのです。


 このように他人と関わりながら、自分が自由に生きることができない面が私たちはあります。私たちが自由にのびのびと喜びをもって生きて行けない現実があります。それは罪の結果です。それは私たちの限界、私たちの無力さがもたらすものです。自分で何とかすれば、何とかなるのではないかと頑張ったけれども、どうにもできない現実を認めざるを得ないのです。自分で自分をどうにもできない現実があるのです。


 あなたは今幸せですか。心から幸せであると言えるなら、神様に感謝してください。幸せだと言えないなら、その理由は何でしょうか。あなたの幸せを妨げるものは何でしょうか。


 信仰の成長というテーマで考えてきたことは、限界があり無力な自分を受け入れること、そのような自分を愛すること、人と自分を比較しないこと、人生を人のせいにしないことでした。それは心を神に向けることによって可能になることを学びました。これができるとどうなるかというと、私たちは自由な人間になれるということでした。私たちは、

「それにもかかわらず自由に生きることができる」

ということを学んだのです。

 自分には限界や無力さがあるが、それにもかかわらず自由に生きることができる。自分が人より劣っていたとしても、自分の持っていないものを人が持っていたとしても、それにもかかわらず自由に生きることができる。人がどんなに自分の人生に影響を与えたとしても、それにもかかわらず、人に振り回されずに生きていける、そういう自由を私たちが持つ、それを信仰の成長と呼びました。


 リック・ウォレン牧師は、『人生を導く五つの目的』という本の中で、

「どんな人も何かに動かされて生きているものです」

と述べ、人を動かすものを列挙しています。人から受け入れられたいという思いに動かされている人がいます。何かを成し遂げよう、何かを手に入れようと達成感に動かされている人がいます。ある人は恐れにとらわれて失敗しないように、人によく思われようとあるいは自分を守ろうとする思いに動かされて生きています。ある人は、怒りや憤りの思いに動かされて生きています。これは自分に振り回されている状態と呼ぶことができます。皆さんは、どんな思いに動かされて生きていますか。

パウロ

「私たちは、誰に対しても自由な者です」(コリント二9:19)

と述べています。私たちは、自分に対しても、そして他の人に対しても自由になるのです。それがキリスト者の自由です。この自由を得る、それが信仰の成長です。イエスは言いました。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

私たちは、他人にも、自分にも振り回されないで生きる自由が備えられているのです。


 ジャンバニエという人が『人と出会うこと』という本を書いています。その中のエピソードを引用します。

「ハンデを持つ青年の、よい話をご紹介しましょう。彼はスペシャル・オリンピックスで優勝したいと願っていました。百メートル走に出られることになり、金メダルを獲得しようとものすごい勢いで走っていました。ところがいっしょに走っていたひとりの人が滑って転んでしまいます。すると青年は引き返し、彼を立ち上がらせ、いっしょにいちばん後からゴールしたのです」。

そして問いが投げかけられます。

「他者と共にあるために、賞をあきらめる覚悟が私たちにあるでしょうか」。

「私たちは勝ちたいのか、それとも他者と共にありたいのか。富める者と貧しい者、権力を持つ者と持たない者、抑圧する側と抑圧される側の隔たりは、なぜ広がっていくのでしょう」。

 私たちは他者をなかなか<共に生きる相手>と見ることができません。私たちの中に利己心があるからです。利己心は、私たちを不自由にします。私たちは自由にされた時、

「神のように人を見ることができるようになります」

 つまり一人一人の人間をかけがえのない大切な存在と見ることができるようになります。その時、私たちは、他者と共にある生き方ができるようになります。


 他者よりも自分を優先する心が貧富の差を生み出し、権力を持つ者と持たないものを生み出し、抑圧する者と抑圧される者を生み出していくのです。他者と共にある生き方、それは自由にされた人の生き方ということができます。それは人を愛する生き方です。私自身は、そういう自由な人になりたいと願い、また、目指しています。


サマリアの女性に戻ります。彼女は、人々が自分をどんな目で見ているか知っています。自分が近づいていけば、彼らは自分を避けることを知っています。そんな人々の中に彼女は「この人はメシアかもしれません」というあいまいなメッセージを伝えに行くのです。彼女には、自分と他人を分け隔てる心がなくなっていました。メシアかもしれない人に出会った喜びを分かち合いたい、という思いに駆られました。この喜びを町の人と共に分かち合いたい、その気持ちが彼女を町の人々に向かわせました。町の人々を、喜びを分かち合う相手と考えるように変えられたのです。


 イエス・キリストに出会った人は、人とのつながりを再発見するのです。人間関係が何よりも大切だと気づくのです。私たちには自分にとって好ましい人とだけつきあうという傾向があります。あるいはこの世のしがらみで仕方なくつきあう関係、ストレスを感じずにはおれない関係、そういう関係の中で私たちは苦しんいます。しかしイエス・キリストに出会う時、私たちは自由にされます。共に生きていく、共にあることを喜ぶという生き方に変えられます。そして今までの人間関係の中に、共にあることを喜ぶという、人と人との新しいつながりを発見し生きることができるようになります。


 神は私たちをこのような関係の中に生きるように召しておられるのです。共に神の召しに答えていきませんか。召しに答える、それは言い換えると、人を愛して生きるようになるということです。言うまでもありませんが、この信仰の成長は、この世の中で様々な人との出会いの中でこそ目指されるものです。人とのつながりを再発見する時、私たちは御言葉に基づいてよりよい夫婦関係、親子関係を築くように促しを受けます。これは私たちにとって大切な課題です。祈ります。


祈り
 天の父、あなたは私たち一人一人を大切な存在として愛し、顧みてくださいます。自分を人と比較する罪、人に振り回され人を赦さず怒る罪を赦してください。私たちに真の自由を与えてください。そして人と共にあること、共に生きることを喜ぶことができるものにならせてください。人を愛することを喜びとする者としてください。イエス・キリストの名によって祈ります。