クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.4.25)
聖書 マルコ 5:1〜20 人とのつながりを再発見する(2)


 「自分を信じる」と話す人たちがいます。私たちも自分を信じます。でもそれは世の人たちと意味が違うと思います。私たちは、自分が神に愛されていると信じます。神に愛されている自分を信じます。言い換えると、自分が大切でかけがえのない存在であること、また自分が世界に与える貴重な何ものかを持っていると信じます。神に造られ、神に愛されている私たちは、かけがえのない大切な存在であり、生まれながらにして人に与えることのできるものを授かっていることを信じるのです。自分がそういう自分であることを信じるのです。


 しかし自分と他者を比較したり、自分の人生はあの人のせいでこうなったと考えたりすると、比較する相手、恨む相手に対して良い人間関係を保つことはむずかしくなります。だから人と自分を比較せず、自分の人生のうまくいっていないことを人のせいにしないで、自分の人生の主人となって主体的に生きるようになることができるのは、神の愛を知ることによってです。神に愛されているから、自分がかけがえのない大切な存在として、また世界に与える貴重な何かも授かっていると信じる時、良い人間関係を持つことができるようになります。

信仰の成長の第六のポイントは、

「人とのつながりを再発見した。いかに人から愛されてきたかということを発見し、どう人に向かっていけばよいかがわかってきた」。


わたしたちは神の愛を口にします。牧師は説教の中で「神は私たちを愛してくださっている」と語ります。聖書にも神は愛なり、と書かれています。ですから神が自分を愛していることを公然と否定するクリスチャンはいないと思います。でも「神は私を愛してくださっている」という言葉が建前になってしまうということがないでしょうか。「神は私を愛しておられる」と自分の語る言葉が空しく響くことがないでしょうか。心から神に愛されていると感じられるのはどういう時なのでしょうか。


 それは自分がかけがえのない大切な存在であることを信じることができる時、自分はこの世界に与えることのできる貴重な何かを持っていると信じることができる時ではないか、と考えます。勿論これだけではないでしょうが、私自身は、神に愛されていると信じることは自分をかけがえのない大切な人間と考えることと等しいと考えています。


 神に愛されていることは抽象的ですが、自分を大切な存在と喜ぶのは具体的です。そうやって神に愛されていることを知るようになると、

  • 自分も他の人を大切にしたいと思うようになり、
  • 自分もまた人から大切にされてきたのではないか、と思うようになります。
  • 私たちは自分が人の愛によって支えられ、生かされてきたことを思うようになります。


 自分の小さい頃から今日に至るまでのことを考えると、人の愛を受けてきたことを感謝できるようになります。そして人との関係を大切にするようになります。いや自分の場合はそうではない、という反論があるかもしれません。親に嫌われ、親からひどい仕打ちを受けたし、自分は自分一人で生きてきた、という人もいるかもしれません。辛い思いをして育ってこられたんですね。自分が人から愛されて育ってきたとは思えない、その気持ちは理解できます。


 生まれたばかりの赤ん坊は、一人では生きることができません。親あるいは誰かの世話を受けることなしに成長することはできません。十分か不十分かの違いはあるにしても、私たちは人に支えられ、人に愛されて育ってきたのは確かだと思います。自分が神に愛されていることを知る時に人に愛されてきたことを知ると、自分もまた人を愛して生きていこう、人を愛する生き方をしていこうという気持ちになります。それは信仰の成長の一つです、と信仰の成長の第六のポイントは語ります。愛することに価値を置く人生を歩むようになる、これは信仰の大きな成長です。

 ここに汚れた霊に取り憑かれた男が登場します。汚れた霊に取り憑かれるとはどういうことか、それは私にはよくわかりません。ただ聖書からわかることがいくつかあります。まず彼は墓場を住まいとしていました。墓場とありますが、イスラエルのお墓は、斜面に横穴を掘って造ります。だから横穴に入れば雨露をしのぐことができ、そこで寝ることもできます。墓場を住まいとするとはただ事ではありません。つまり彼は、家族から排除され町あるいは村という共同体からも排除されていたのです。墓しか住む場所がなかったのです。 


 この汚れた霊に取り憑かれた男に対して、人々は鎖で縛りまた足かせをはめようとしたと書かれています。足かせをはめ、鎖で縛るというのも、普通ではありません。彼が乱暴を働くので人々は身の危険を感じたと思われます。鎖や足枷で行動の制限が加えられるというのは屈辱的なことです。


 さらに彼は、墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていたとあります。汚れた霊に取り憑かれ、自分のどうにもならない現実に対する怒りや苦しみから叫んだのかもしれません。また自分にとりついた汚れた霊を追い出そうとして石で自分を打ちたたくのでしょうか。悲惨でみじめな姿です。本当に気の毒な姿です。


 イエスは、舟でガリラヤ湖を横断しゲラサ地方に来ます。汚れた霊に取り憑かれた男はイエスのもとに来ます。彼は汚れた霊に取りつかれていたとはいえ、汚れた霊に支配されて全く無力であったとはいえません。彼がイエスに近づいたのは彼の意志です。汚れた霊からすればイエスに近づく理由はありません。汚れた霊に支配されていましたが、彼の意志は完全に束縛されていたわけではなく、彼は救いを求めてイエスのもとに行ったのです。イエスは汚れた霊を彼から追い出しました。その結果、彼は正気に戻りました。叫んだり、石で自分を打ちたたいて傷つけるような行為はピタリとやんだのです。


 イエスがこの男から汚れた霊を追い出した時、汚れた霊はイエス

「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」

と頼みました。イエスがお許しになり、汚れた霊が豚に乗り移ると豚は、一斉に崖を下り、湖になだれ込み、おぼれて死んだと書かれています。豚の数は二千頭とありますから、これは大変な出来事です。豚飼いたちは、この出来事を町や村へ行って伝えました。すると人々がやってきて、汚れた霊に取り憑かれた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐れを感じました。そして人々は、イエスに、この地方から出ていくようにと言い出します。


 それでイエスが舟に乗ろうとした時、この男は、一緒に行きたいと願います。するとイエスは、

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」

と命じます。


 家に帰る、それは簡単なことではありません。彼が汚れた霊に取り憑かれた時、まず家族が彼を家から追い出しました。

  • 近所に迷惑をかけてはいけないという思いから追い出したかもしれないし、
  • あるいは家族が彼を受け入れることができずに追い出したのかもしれません。
  • そして家族や近所の者たちが鎖で彼を縛り、足かけをはめようとしたわけです。

ですから、そんな人々のいる所に戻りたいとはなかなか思えません。それよりも、イエスと一緒にいる方がよいと彼は考えました。12人の弟子たちがすでにイエスと一緒にいますから、自分も加えて欲しいと願うのは理解できます。ところがイエスは、家族のもとに帰り、神が自分を憐れみ、救ってくださったことを知らせなさいと命じます。


 イエスは彼と家族の関係の回復を願われたのです。イエスと出会い、イエスに救われた人は、人とのつながりを再発見するのです。人とのつながりの大切さに目覚めるのです。新しい関係を築いて生きるのです。それは家族から始まるということができます。

 私たちは人間関係の中で生きています。家族、職場、地域、教会。信仰者になるということは、自分に与えられている人間関係を、愛する関係に築き直すという使命を神様からいただくことです。

  • 夫婦の関係では、夫は自分の体を愛するように妻を愛しなさい、妻は夫に仕えなさいとの教えがあります。
  • 親子関係では、子供は親を敬いなさいと教えられ、親は子供を怒らせてはいけませんとの教えがあります。
  • 教会員同士では、互いに愛し合いなさいという教えがあります。
  • 職場における関係では、上の立場に立つ人は、部下に対して公平になりなさいとあり、下の立場にいる人は、上司に真心を込めて従いなさいと教えられています。


 私たちは聖書の教えを知らないうちに、あるいは聖書の教えを真剣に受けとめることなく人間関係を築いてきました。この人間関係を築き直す、愛を土台とする関係に築き直す、これが信仰の成長の第六のポイントが語っていることです。


 先週は、共にあることを喜ぶ関係に生きることを話しましたが、親子にしろ、夫婦にしろ、職場、教会における人間関係にしろ、聖書の教えは、共にあることを喜び、共に生きることを喜ぶ関係を築きなさいという教えに要約されます。つまり愛するということです。


 そういうとむずかしい、という声が上がります。たとえば相手は未信者だし、こちらの気持ちに答えてくれないという経験をされた方もおられるでしょう。相手のせいでむずかしいというと、相手に振り回される人生に陥ってしまいます。


 汚れた霊に憑かれた男は、汚れた霊に支配されて生きていました。苦しみのあまり叫び、自分の体を石で打ちたたき、自分の体を傷つけて汚れた霊を追い出そうとするのですが、うまくいきません。ある意味、絶望的な状況です。でも彼には、イエスのもとに行くという意志があり、彼はそれを実行しました。そして汚れた霊の束縛から自由になりました。私たちは何を見るのか、それが大切です。

「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」(16節)。

 豚がおぼれ死んだことを見た人は、この地方から出ていって欲しいとイエスに告げました。イエスを不吉な人間、自分たちに災いをもたらす人間と見たのです。もし悪霊に取りつかれた男が正気になったのを見たのなら、イエスを束縛から自由にしてくれる人間と見たなら、イエスを招き、イエスから話を聞くなり、病気を癒してもらったり、悪霊を追い出してもらうなどの働きをしてもらえたでしょう。何を見るのか、それによって結果が大きく違ってきます。


 この人間関係はどうにもならないと思えても、つまり改善することはむずかしいとあきらめてしまいそうなあるいは実際にもうあきらめている人間関係でも、イエスが幸いな人間関係に変えてくださると信じることができます。それは棚からぼた餅式に与えられるのではなく、私たちがイエスのもとに行き、愛しなさいとイエスの言葉を聞き、それを行うことによって実現していくのです。


 汚れた霊を追い出してもらった男も、家族との関係の回復という課題を与えられ、家族のもとに戻りました。家族を赦し、多くの人々にイエスの働きを宣べ伝えました。


 私たちも神の恵み、導きによって、人間関係をもう一度新しく築き直すことができることを信じたいと思います。あなたの親との関係、夫との関係、妻との関係、子供との関係、職場での関係を新たに築き直してみませんか。そこに信仰の成長があるのです。私たちは愛に生きる生き方に招かれているのです。それに応じる、それが成長です。


祈り

 天の父なる神様、あなたによって愛されていることを知ることは何と幸いなことでしょうか。自分はかけがえのない大切な存在、そして神様は、私たちがこの世界に対して与えるものを持っており、私たちに生きる意味があることを知ることができることは何と幸いなことでしょうか。
 自分がすてきな存在であることを喜び、愛することを大切にする歩みができますように。特に、家族との良い関係を築くことができますように、また神の家族との良い関係を築くことができますように。そして生きていることの喜びで私たちを満たしてください。
 共にあることを喜び、共に生きることを喜び、平和が私たちの家庭から、この世界に広がっていきますようにイエス・キリストの御名により祈ります。