クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 良い天気でした。礼拝後、壮年会主催で「山菜を食する会」が開催されました。といってもただお昼を食べるだけですが、山菜を採って調理してくださる方がおられご飯を炊いて礼拝後食べながら、テーブルのあちこちでおしゃべりが聞こえてきました。和やかな交わりの時です。


 皆さんが帰られた後、良い天気でしたので、国見山に出かけました。犀川の奥にあります。車で林道を走ります。教会から40分ほど。林道脇の広いスペースに駐車して、林道をしばらく歩き、登山口から山に登ります。15分足らずで、国見山の頂上です。カタクリの花やスミレが何種類も咲いていました。こういう散策での目的は二つ。花と団子です。


本日のメッセージ(2010.5.2)
聖書 マタイ 16:21〜28
現実をありのまま受け入れ、希望を失わない (1)


 自分の子供にしても、孫にしても、その成長する姿を見ることはうれしいものです。神様もきっと私たち信仰者の成長を喜ばしく思っておられることと思います。


 信仰の成長をテーマにして説教を続けています。「信仰の成長」は色々な角度から考えることができると思いますが、私は自由という点から考えて、説教を続けてきました。自由な人間になる、それが信仰の成長であると考えます。さらに自由になるほど、神と人を愛することができるようになります。そして信仰者としての人生を生きる中で、信仰が成長し、自由な人間にされ、神と人を愛することができることを喜び、また神様に感謝することができれば、その人は祝福された人です。


私の大切にする聖書の言葉でイエスが語った言葉を紹介します。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:3〜32)。

 私が信仰を求めた直接的な理由は、死の恐れと空しさからの解放が欲しかったからです。信仰を得てこの解放は与えられました。聖書を読む中で、自分のもつさまざまな不自由に気がつかされました。劣等感、妬み、失敗への恐れ、思い煩い、自己中心性、罪の支配。そして、これらからの自由を与えられ、他の人のことを考え、思いやり、愛することが少しずつできるようになりました。神様の恵みとしての成長です。


 皆さんもそれぞれに、こういう信仰者になりたい、それに近づきたいと考えるところがあるでしょうし、近づいてこられたと思います。信仰の成長をテーマにした説教が、皆さんの成長に役立つことを願っています。

 今日と来週で取り上げる信仰の成長の第七のポイントはこうです。

「現実をありのままに見つめ、受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても、希望を失わず、前向きに生きることができる」。

 今日の聖書にこうあります。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。

 このイエスこそ、第七のポイントのモデルです。


 現実をありのままに見つめ、受け入れるということは、決して簡単なことではありません。それは皆さんが知っている通りです。辛い現実、悲しい現実、苦しい現実、困難な現実、みじめな現実、受け入れがたい現実があります。なぜ受け入れがたいかというと、認めたら、希望が持てず、どうしていいかわからず、絶望しか残らないからです。そこで現実を認めようとしない行動が生まれます。


たとえば、悲惨な現実、辛い現実を人のせいにするのです。そして人を責めるのです。他人を責め、時に自分を責めます。責めている限り悲惨な現実に向き合わないですみます。この現実をどう生きるのかを考え始めることはありません。

 聖書の創世記には、サラという女性が登場します。彼女はアブラハムの妻です。彼女は子供が授かりませんでした。そしてすでに年老いました。普通なら、私と夫は子供のいない夫婦なんだと思うわけです。ところが神が、夫のアブラハムに、あなたの子孫は増え広がるであろうと約束を与えました。そこで子を持てるという希望が芽生えます。しかし子供は与えられません。そこでサラは自分の奴隷である女を夫に与えて子を産ませます。彼女は身ごもり子を産みます。夫には子ができたのです。


 その子から子孫が増え広がり、神の約束が実現するのかも、と期待した時、とんでもないことが起きます。夫の子を産んだ奴隷の女が自分を見下すのです。召使いが主人である自分を軽蔑のまなざしで見るのです。耐えられません。サラは、この現実を受け入れることはできません。彼女は「あなたのせいよ」と夫を責めます(創世記16章)。


 次は、悲惨な現実に直面しただ嘆くだけの人物です。無力さの中で、打ちひしがれ、どうすることもできないままに過ごします。それはヤコブです。彼も創世記に登場します。彼には12人の息子がいました。11番目の息子ヨセフをヤコブは特別に愛します。それを妬んだ兄たちはヨセフを奴隷として売り飛ばすことにし、父には、ヨセフは獣に殺されたと報告します。こうしてヤコブは愛する息子を失います。


 しばらくして飢饉が発生し、食べ物に困るようになります。そこでヤコブは息子たちにエジプトに行き食糧を買ってくるように命じます。息子たちがエジプトに行くと、穀物を販売する監督から、お前たちはスパイだと疑われます。そして疑いを晴らしたいなら、おまえたちの中の一人は、人質としてここに残り、一番末の弟を連れてきなさいと命じるのです。食糧を買って帰り、このことを父ヤコブに報告します。ヤコブは息子の一人がエジプトに取り残されたことを嘆きます。そして末の息子をエジプトに送ったら、その息子を失うかもしれないと嘆き悲しみます。人質になった息子をそのままにします(創世記42章)。


 現実をありのままに受け入れない三番目の例は、現実を見ず、事態を楽観的に受けとめる態度です。つまり根拠のない希望を抱くのです。根拠のない希望、つまり妄想の世界に逃げ込むのです。旧約聖書にある話です。イスラエルは神の民でありながら神に背くことを繰り返していました。そこで神は預言者を送り、悔い改めるように迫ります。預言者は語ります。

「悔い改めないと神から懲らしめを受ける。神の懲らしめの手段としてアッシリアが攻めてくる」。

 しかしイスラエルの民は預言者の語ることに耳を傾けません。それどころか偽預言者が登場し

「あなたたちは神の民である。神は必ず助けてくれる」

と語るとこれを信じるのです。偽預言者が語る偽りの希望を抱くのです。勿論神は助けてくれません。神の懲らしめとして国が滅びるという事態に陥ります。


 四番目の例は、なぜこうなったのか、と神に抗議します。旧約聖書に登場するヨブです。彼はひどい病気になり、死ぬことを願う程です。心配した友人が見舞いに来るのですが、友人たちは、ヨブが何か罪を犯したから神の罰を受けているのだ、だから悔い改めなさいと忠告します。しかしヨブには罪を犯した覚えはなく、神に向かってなぜ、こんな苦しみに遭うのか、と抗議します。


 このように、人はなかなか、悲惨な現実、辛く、苦しい現実、悲しい現実を受け入れようとしないのです。仕方がないと言えば、仕方がないです。しかし成長した信仰者は

「現実をありのままに見つめ、受け入れている。現実がどんなに悲惨なものであっても、希望を失わず、前向きに生きることができる」。


 むずかしいと思われるかもしれません。成長した信仰者は、現実がどんなに悲惨なものであっても、希望を失わないで前向きに生きる自由を持つのです。これはクリスチャンがこの世に発することのできる素晴らしいメッセージです。


・皆さんは、ご自分の現実をありのままに見つめて受け入れておられるでしょうか。
・自分の抱える問題から逃げず、向き合う姿勢を持っておられるでしょうか。
・問題があるのに問題がないかのように考え、現実を見ない態度になっていないでしょうか。
・現実を受け入れ希望を持って歩んだ方は、その後どうなったのでしょうか。

 希望を失わないのは、兄弟に売り飛ばされたあのヨセフです。彼はエジプトに奴隷として売られました。エジプトの宮廷の役人の家でしもべとして働きます。すると主人の妻は若いヨセフを誘惑します。ヨセフがこれを拒むと彼女はヨセフが自分を襲ったとヨセフを非難します。主人の妻を襲ったという濡れ衣を着せられ、ヨセフは牢に入れられます。ヨセフには、次から次へと不運が見舞います。悲惨と言えば悲惨です。


 現実がどんなに悲惨でもヨセフは希望を失わず前向きに歩みました。前向きとはヨセフの場合、神に従って生きることです。自暴自棄にならず、人を恨まず、神を恨まず、神の前に罪を犯さないように生きたのです。神に希望をおいたのです。


 彼は、悲惨な現実の中にも神の働きのあることを信じたのです。どんな神の働きがあるのかは、何年もしてから明らかとなります。彼は悲惨な現実の中でも、罪を避け、神を信じて生きていくのです。誠実に生きた姿が人の認めるところとなり、やがてエジプトの王に次ぐ地位に就きます。そして父や兄たちを助ける出来事が起きるのです。悲惨な現実の中にあって、目には見えない神の働き、導きを信じ、悲惨な現実をヨセフは受け入れて生きたのです。


 現実をありのままに見つめ受け入れることを考える時に大切なことは、自分の罪を見ることに対して心が開かれていることです。


 昔イスラエルの民はエジプトの国で奴隷でした。みじめで苦しい生活を送っていました。神に助けを求めて叫びました。彼らが奴隷状態から救われ、エジプトを脱出し、自由に暮らすことができる土地に向けて旅立ちます。これは出エジプト記に書かれています。やがて約束の土地を目の前にします。偵察隊が約束の土地の状況を説明します。

約束の土地にいる人々は我々より強い。彼らと戦えば剣で殺されるだろう。妻子は奪われるだろう」。

 こうしてイスラエルの人々は、嘆き、泣き言を言ったのです。奴隷の地エジプトを脱出してここまで来たのに、どこへ行けばいいというのでしょう。行き詰まりました。何と哀れなことでしょう。これまでの努力が水の泡! しかし少数の人々は神を信じて前進しようと主張します。

  • エジプトを出て約束の土地を目の前とする場所に来るまで、何度神に助けられたことでしょう。
  • 水がない時、食べ物がない時、敵が攻めてきた時、神はいつも助けてくれたのです。
  • 神に信頼しない罪、不信仰、それが泣き言を言わせたのです。


 神の救いを思い起こし、神に助けを求めるなら、約束の土地に入り、これを獲得することができるのです。不信仰が、嘆きと失望をもたらしたのです。罪を悔い改める時、道が開かれるのです。信仰が希望を生み出すのです。


 自分の罪を見たくないので、人は現実をありのままに見ようとしない、受け入れようとしない、そういうことがよくあるのです。悲惨な現実、苦しい現実、辛い現実、それは罪を悔い改めるようにとの神の警告のラッパである場合があるのです。


 今日読んだ聖書で、イエスは自分がエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されること、三日目に復活することを弟子たちに打ち明けました。イエスは十字架を目指して歩んでいるのです。人々を罪から救うために自分の命を捨てるという道を歩んでいるのです。十字架の上で辱めと痛みを味わい、さらには神に見捨てられるという悲惨な死を遂げるのです。悲惨な現実をイエスは生きようとするのです。その道を歩むように神が願っておられると信じたからです。弟子のペトロは、

「そんなことがあってはなりません」

とイエスをいさめます。しかしイエス

「サタン、引き下がれ」

と言います。


 誰だって悲惨な目に遭いたくないです。ペトロの言葉は、誘惑の言葉です。神のみ心から離れるようにとの誘惑の言葉です。だからイエスは言います。

「あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」。

 イエスは、私たちを罪から救うために十字架について死にました。


 現実をありのままに見る時、自分の罪が見えてしまうことがあります。それが嫌で現実を見ず、問題があるのに問題がないかのように現実を見ることがあるとお話ししました。しかし、罪の解決があるゆえに、私たちは自分の罪を認め、そこから希望を持って前向きに生きる道が開かれることを信じることができるのです。


どのような悲惨な現実の中にあっても、希望は常に神にあり、信仰を持って私たちは前向きに、自由な人間として喜び、自分の責任を果たして生きていくことができるのです。ありがたいことです。


祈り
 天の父、あなたの御名を崇めます。私たちは時に、受け入れがたい現実に直面します。そのような時、それでもなお私たちは神様の顧みの中にあり、神様が私たちを導かれる方であることを信じることができるように助けてください。どのような現実におかれても、私たちはあきらめることなく、あなたの助けを得ることができることを聖書に登場している人々の姿から学ぶことができますように。あなたに希望を置くことにより、現実に直面して問題に向き合うことができるようにしてください。イエス・キリストの御名により祈ります。