クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 福島原子力発電所の事故が収束の見通しが立たない。これはある意味で撒いた種を刈り取っていることになるのではないか。原子力発電は安全でクリーンであると宣伝されてきた。今回の事故で安全神話が崩れたわけであるが、安全神話を語る内に自らもこれに囚われ、安全対策の設備は甘くなった。十分ではなくなった。想定範囲の事故に対応するだけの設備になってしまった。想定外のことが起きれば、事故処理が思うように行かないのは当然のこととなる。常識的には、想定外のことに円滑に対応できると考えにくい。


 原子力発電所をつくる場合、地元との協議が行われる。住民は当然、安全性に不安を感じる。どれほどの危険があり、それに対してどのような対処をするのか、正直に話して欲しいと願う。しかし、電力会社は、安全を強調して説得しようとする。事故の想定範囲をどうしても狭くしようとする。安全を強調し、安全対策が不十分となってしまった。結果、後手後手の対策を取るしかなく、収束の見通しが立たない。今、各地の原子力発電所で応急的な対策が取られている。


 原子力発電を推進した人たちは、謙虚に反省しないと解決は導かれないのではないかと僕は思う。想定外だと居直れば居直るほど、収束のための計画を立てても、ざるから漏れが生じるように思いがけない事態が起こり、それの対応に追われることになり、いつ収束するのか目処が立たない。それが今の現実である。


 神の憐れみによって事故の収束を祈っているが、謙虚は反省が必要であるとの思いが強まるこの頃である。

 今日は午後、自転車で散歩した。説教に向けて黙想するため。今日は百万石祭りで、市内の目抜き通りは人がいっぱい。混雑を避けて、二時間ほど散歩した。