クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 焼き肉チェーン「焼肉酒屋えびす」の集団食中毒で被害に遭った人のことが新聞に出ていた。この人は4月23日に家族で食事に行き中毒にあった。5月になって妻と義母が亡くなり、二人の子供は集中治療室で20日間過ごしたという。そして5月の治療費の請求が来た。何と1,300万円。フーズ社がきちんと賠償できるかどうか不安に思っているとのこと。フーズ社がきちんと賠償できることを願う。


 焼肉チェーン店の経営者は当たり前だが利益を上げることに努力する。食物を出すということは、客の命の責任を負うことである。そのことを忘れ衛生管理を怠り、儲けに目が向いた時、思いがけない事故が起きた。起きたというより招いたと言うべきだろう。運営会社フーズ社は会社を清算することになった。一旗揚げようとして起業し、順風満帆と思ったかに見えた時、とんでもない事故を起こして会社を閉じる。賠償金が重くのしかかる。自分が負っている責任の大きさに唖然としたのではないか。


 それにしても、自分が負うべき責任の大きさが思いがけないほど大きいものであるかを知らされる出来事が発生している。東京電力もまた原子力発電所の事故で、とてつもない責任を負うことになった。想定外という言い訳は通用しないだろう。「大丈夫ですか」という疑問には「安全です」と言い続けてきた。農家の人は収穫した野菜が売れなくなるし、住み慣れた土地を離れることにより、事業を継続できなくなる人がいるし、住民は避難生活を余儀なくされ、放射能は、どこまで広がり、どんな影響を与えるのか、先行きが見えていない。報道で、放射能の影響がこんな所まで現れていると聞く時、自分たちの負うべき責任の果てしなく大きく広いことに東京電力の経営者は生きた心地がしないのではないだろうか。原子力発電は、国策として勧められてきた経緯があるので、賠償に国家も責任を負うことになる。電気料の値上げにより、国民にも負担が課せられるように聞く。


 自分がどれほどの責任を負っているのか、人はなかなか、向き合うことができない。第一に恐い。責任の大きさを知っていたら、負う気持ちになれないのではないか。第二にその責任の大きさが分からない。


 牧師の負う責任とは何か。日常的な働きを遂行する責任はわかる。事が起きた時に、負うべき責任の大きさを知らされるのであるが、それは何か。福音を宣べ伝えるために牧師は神に召されている。福音を宣べ伝える責任。これはどこまで大きく広がる責任なのか。聖書には「教える者」は、神により厳しく裁かれるとある。


 主イエスは、活動を始める前に洗礼を受けられた。その時、天からの声を聞く。「これは私の愛する子、わたしの心にかな適う者」。これは、預言者イザヤの言葉を思い起こさせる。自分を待っているのは苦難という事である。その苦難を引き受ける覚悟をもって主は、その活動を開始する。