今日は奈良高畑教会で行われた葬儀に出席しました。共に日曜礼拝に出席していたTさんの葬儀でした。昨年秋の11月に緩和病棟に入院されたと聞きました。緩和病棟ですから、痛みをケアしながら最後を迎えることになります。余命一ヶ月と医師から宣告されましたが今月7日に亡くなられました。
キリスト者が人生の最後をどのように迎えるのか、Tさんの歩みは模範と私は受けとめました。葬儀の式辞で故人の略歴と愛唱讃美歌、大切にされた聖句が紹介され、Tさんの人生について紹介がありました。Tさんはこれらの情報を牧師に伝えていたとのことです。自分の葬儀の備えをしておられたのです。私も牧師として葬儀をしてきましたが、このような備えをされた方は少なかったように思います。Tさんは生涯の最後を覚悟をもって過ごされたことが分かりました。祈祷会でもTさんのことは報告され、皆で祈ってきました。
Tさんが大切にしてきた聖句として紹介されたのがロマ書5章の言葉です。
ローマ 5:3~5
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。
この聖句は、Tさんの人生を支える聖句でした。入院されているとき、「大きな気づきが与えられました」と牧師に語られました。Tさんはその人生の中で、この聖句を支えにして自分の努力で忍耐をしてきたとのこと。しかし入院する中で不安が心を支配し、眠れぬ夜を過ごすこともあったそうですが、神にゆだねて忍耐することに気づき、平安を与えられ、ぐっすり眠ることができるようになった喜びを牧師に語られたことが紹介され、心に残りました。
Tさんは入院したときは、吐き気に悩まされました。やがて吐き気はおさまり安定した日々を過ごされました。そしてついにまた体調が悪くなり、亡くなられました。
最後に苦しむのってつらいなと思いましたが、ふと思いが与えられました。そうです、主イエスは十字架の上で苦しみながら、苦しみの果てに亡くなりました。死の間際の苦しみはない方がいいに決まっています。でも主イエスに救われた者として、苦しみのある最後は、主イエスの最後に倣うものとして、光栄に満ちた最後ではないかと思いました。病気からくる苦しみの中で亡くなることは、主に倣う最後を迎えることと思えば、その苦しみの忍耐は神の国に迎えられる希望につながると思いました。この気づきはTさんからの贈り物と受けとめました。