あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして地の果てに至るまで、私の証人となる。
(使徒言行録1章8節)
聖書の中にはどうしても見過ごすことのできない言葉があります。この聖句がまさにそれです。この聖句は素晴らしい約束であると同時に、約束であるがゆえに不安をもたらします。
- 私に聖霊が降り、私は力を受けているのだろうか、と。
- 私はキリストの証人になっているのか、と。
- 教会はキリストの証人の集いとなっているのか。
- 伝道が不信なのは、なぜか。教会に集う人々が力を受けたキリストの証人として伝道すれば、伝道が不信ということはあり得ないのではないか。
次々と不安や疑問が生じてきます。牧師になってこの聖句に出会った時から、この聖句は脳裏から離れません。聖霊はいつ、どのようにして私たちの上に降るのか。力を受けるとはどういうことなのか。異言を語ったり、病気を癒したり、預言をしたりすることなのか(コリント一12章)。それとも「愛、喜び、平和、寛容・・・」などの聖霊の実を結ぶことなのか(ガラテヤ5:22)。それとも熱心に神様のことを人に伝えることなのか。
4つの福音書すべてにイエス様は聖霊によって洗礼を授ける方であると書かれています。聖霊が降るとは、聖霊による洗礼を受けることです(使徒1:5,8)。いつイエス様は、聖霊による洗礼を授けてくださったのでしょうか。福音書には、イエス様はすべての信仰者にこれを授けるとは書いてありません。
聖霊による洗礼について信徒の時、説教を聞いたこともないし、洗礼を受ける時に、教えられた記憶もありません。牧師になってから、この聖句を引用したり、聖霊の洗礼について、周りにいる牧師が語ったりするのも聞いたこともありません。謎に満ちた聖句です。でも謎で済ませられる言葉ではありません。でもまだ謎です。
私が身を置いた神学の立場では、水の洗礼を受ける時、聖霊による洗礼を同時に受けるという理解をしています。でも私は納得できていません。
ペンテコステ派の人たちが、聖霊による洗礼を受けると異言を語るようになるという話しは、本で読みました。でも共感できません。