holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

聖霊の導きを求めて(11)

 御殿場教会に赴任して4~5年していろいろな問題、課題に直面し、ある意味、煮詰まってきました。47歳くらいの頃でしょうか。そして聖霊信仰に取り組むときが来たように思いました。前にも述べましたが、久遠キリスト教会の丹羽鋹之(としゆき)牧師の体験は私の心に深く残っています。

正直言って自分の中には、まざまざとした生きたキリストの経験がない。即ち聖霊の経験がない。”なんぢ尚ほ一つを欠く”という、この求めが切になってまいりました。 

  この丹羽牧師の求めに当時の私は共感しました。「渇きです」。そして神が生きて働かれる方であるとの確信を得た私は、聖霊との生きた交わりを欲しました。牧師としての私が決して忘れることが出来ない聖句があります。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1章8節)。

 ここには「力を受ける」とあります。これは体験できることです。「力を受ける」という経験を自分はしたのか? しているようには思えません。神が生きて働かれる方であることを知ったとき、確信をもって説教できるようになりました。でもそれは「力を受けた」という体験とは違うように思いました。

 もう一つの聖句は、ペトロが捕らえられ、イエスを宣べ伝えるなと脅され、釈放されて仲間のところに戻って来たときのことです。使徒言行録4章。彼は仲間と共に祈るのです。

主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

祈りが終わると、

一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

 聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語りだした。牧師・説教者として憧れます。大胆に確信をもって語る、これができずして説教者と言えるのでしょうか。ある人たちは、このような出来事は初代の教会の時だけに起きたことであり、今日起きることではないと主張されます。意見は色々あります。

 丹羽牧師が聖霊を求めて祈られたように、私も祈り始めました。丹羽牧師は昭和26年の初頭から祈り始め、6月も終わろうとするときに、突然、聖霊体験をされました。異言を語ったのです。彼は自分のこの経験を聖霊のバプテスマと呼んでいます。この時から丹羽牧師は大胆に御言葉の説き明かしをし始めました。

 私も祈り始めました。でも続かなかったのです。情けない!3ヶ月ほど祈りましたが続きませんでした。続かなかったのは私の忍耐のなさかもしれません。求める思いが弱かったのかもしれません。でも今思うと、神さまは別な道を歩むように願われたのかもしれません。でもそこから、私の悪あがきが始まりました。