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隠退牧師 holala によるブログ

聖霊の導きを求めて(12)

 無知な者が限られた情報をもとにして、大それた目的を目指すとどうなるのでしょうか。無知なものとは私のことで、大それた目的とは、聖霊の交わりに生きることがどういうことかを知ることです。

 私たちの礼拝の最後になされる祝祷の言葉は聖書からの引用です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリント二13:13) 

  「聖霊の交わり」が何を意味しているのか、牧師が教えるのを聞いたことがありません。私も教えたことがありません。若いときの私は教えられなかったからです。

 聖霊を注がれる、聖霊に満たされる、聖霊が降る、聖霊を受けるなど、いろいろな表現が聖書に出てきますが、一体何を意味しているのでしょうか。それを知りたかったのです。聖霊を信じるなら、それを体験したいと思うのは自然だと思います。これは大それた目的と私は思います。

 限られた情報とは、聖霊に関する情報です。キリスト教書店に行くと聖霊に関して二種類の本がありました。ペンテコステ派系の聖霊理解の本と、福音派系の聖霊理解の本です。それぞれに翻訳された本が多かったように思います。残念ながら私が属する日本基督教団の出版局からは聖霊に関する本はほとんどなかったと思います。教理を教える神学書には聖霊に関する記述がありますが、正直、私の求めには役に立ちませんでした。

 そして鍵となるのが「聖霊のバプテスマ」です。4つの福音書に、イエス様は聖霊による洗礼(バプテスマ)を授ける方と書かれています。これをどう理解したらよいのか、です。そして私はどうなの、です。ペンテコステ派では、水の洗礼と聖霊による洗礼を区別し、聖霊による洗礼は、信仰者が後になって経験するものと理解します。そして聖霊による洗礼には異言が伴うと教えられます。異言は聖霊のバプテスマのしるしという理解です。福音派は、そして日本基督教団の諸教会では、水の洗礼と聖霊による洗礼を区別しません。水の洗礼を受けるとき、聖霊による洗礼も受けると教えられます。

 聖霊に関する本は、それぞれの立場から聖書を引用して、自分たちの理解を説明しています。初心者はどちらを読んでも、なるほどと思ってしまいます。というか初心者は、その違いをはっきりとわきまえることもできないのです。無知な私はまさに初心者でした。

 丹羽牧師の体験は、ペンテコステ派の理解そのものです。聖霊に対する「渇き」を満たしたいなら、聖霊のバプテスマを受ける必要があると初心者が考えるのはもっともです。

 なお聖書には、聖霊のバプテスマが具体的に行われた場面が描かれています。あのペンテコステの出来事です。祈っている弟子たちの上に聖霊が降り、聖霊が語らせるままに弟子たちが語り出したという出来事、あれは弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた出来事です。なぜそう言えるのでしょうか。使徒言行録1章で、天に上げられる直前のイエス様がこう言われました。

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。使徒言行録1章5節

「あなたがたは間もなく」。イエスが天に昇られて10日後、弟子たちの上に聖霊がくだりましたが、これは聖霊のバプテスマに他なりません。

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