クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

み言葉に従う

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイ福音書7章24〜27節)。


↑いつも水汲みに行く場所。雪国にいると感じます。


 教会の伝道の働きが盛んとは言えません。伝道はむずかしいという声がひそかに教会に蔓延しているかも知れません。どうしたら、実りある伝道ができるのでしょうか。これはいつも考えているテーマです。これは方法論の問題ではなく、信仰生活そのものに問題があるのではないか、と考えています。今朝、マタイ福音書を読んでいて、ふっと与えられた思いがあります。それを紹介します。


 今、車を運転する人は沢山います。運転免許証を得るためには、運転技術の試験、交通法規の知識を問う試験があり、合格して初めて免許証の交付を受けることができます。その後、車の運転をするようになりますが、どれほど交通法規の内容を確認して運転しているのでしょうか。


 多くの人は、交通法規を知っているつもりで、法規を逸脱することのないと思える運転をしているのではないでしょうか。交通法規の問題を出されれば、答えることはできるかも知れませんが、高速道路で運転するときは、何に注意しなければならないか、というような問題が出されたら、結局常識でしか答えられないのではないかと思います。私自身がそうだからです。私がそうだから他の人も皆同じだというのは乱暴な議論であることは知っていますが、多分はずれていないと思います。


 同じように、信仰生活の長い人は、聖書を読み、礼拝で説教を聞き、聖書の教えは知っているつもりになり、聖書の教えに生きているつもりになっているような気がします。主イエスは言います。<わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は>。主の言葉を知っていることと行うことは全く違います。行っているつもりと行っていることも違います。
 <行っているつもり>は、簡単にばれます。つまり、この教えをあなたはどのように実践しましたか、と聞けばいいのです。案外私たちは、答えられません。教えに背くようなことはしていないかも知れませんが、実践するという体験に欠けているのです。実践していれば、体験することから生まれる言葉があり、それが<証し>として語ることのできる言葉となります。


 このような証しとしての言葉が、実は説教者、牧師にも欠けているのではないか、そういう危機感を僕は持っています。そこに福音が真理であることを伝える力の弱さ、無力さがあるのではないか、と考えています。

↑水を汲んだ後に寄る道の駅。新鮮な野菜を買います。