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隠退牧師 holala によるブログ

第13日 神に喜ばれる礼拝

暗唱聖句

「心と、思いと、知性と、力の限りを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)


1.要約1

 神はあなたのすべてを求めておられます。

  • 神はあなたの人生の一部分だけではなく、あなたの心、思い、知性、力のすべてを求めておられます。
  • 神はいい加減な献身や、曖昧な従順や、残り物の時間やお金には興味を持たれません。
  • 神はあなたの人生の切れ端ではなく、あなたの100%の献身を求めておられるのです。

 神に喜ばれる礼拝の四つの特徴。

  1. 神は、私たちの礼拝が正しくなされることを喜ばれる(まことをもってする礼拝)。
  2. 神は、私たちの礼拝が本物であることを喜ばれる(霊をもってする礼拝)
  3. 神は、私たちの礼拝が思慮深いものであることを喜ばれる(知性を尽くして)。
  4. 神は、私たちの礼拝が実際的であることを喜ばれる(自分自身を献げる)。


2.要約2

 神はあなたのすべてを求めておられます。

  • 神はあなたの人生の一部分だけではなく、あなたの心、思い、知性、力のすべてを求めておられます。
  • 神はいい加減な献身や、曖昧な従順や、残り物の時間やお金には興味を持たれません。
  • 神はあなたの人生の切れ端ではなく、あなたの100%の献身を求めておられるのです。


 神に喜ばれる礼拝には、四つの特徴があります。


(1)神は、私たちの礼拝が正しくなされることを喜ばれる。

  • 自分が抱く理想像としての神を礼拝するのではない
  • 正しい礼拝とは、聖書が期しているとおりの神を礼拝する。
  • 「霊とまことをもってする礼拝」の「まことをもってする礼拝」とは、聖書に記されている通りの神を礼拝するとの意味。


(2)神は、私たちの礼拝が本物であることを喜ばれる

  • 「霊」をもってする礼拝とは、私たちの霊が神の霊に応答する礼拝。
  • 「心と思いを尽くして神を愛しなさい」 → 純粋な気持ちで心からささげる礼拝
  • 神は、私たちの心の態度をごらんになる
  • 礼拝には、神ご自身を喜ぶという要素がある。

  → 喜ぶという感情を伴う礼拝。正直で真剣な愛から来る喜び

  • 礼拝は、情熱的であると同時に教理的。心も頭も動員する。
  • 音楽による感動と聖霊による感動は違う。
  • 賛美の表現方法:様々なスタイルがある。最も自然に神に対する愛を表現する方法
  • 聖なる小道:人それぞれの神を愛し、礼拝する仕方がある。


(3)神、は私たちの礼拝が思慮深いものであることを喜ばれる。

  • 知性を尽くして礼拝しなさい。頭を使う。
  • 決まった言い回しは厳禁。様々な表現を用いる
  • 信仰を持っていない人への配慮


(4)神は、私たちの礼拝が実際的であることを喜ばれる。
  ローマ12:1 からだをささげる。

  • 体をささげるとはあなた自身を献げること。
  • 神はあなたが生きた供え物であってほしい
  • 神はあなたが神のために生きることを願っている
  • 様々な礼拝の犠牲の供え物

  感謝・賛美・謙遜・悔い改め・献金
  助けを必要とする人と苦楽を共にする

  • 真の礼拝のためには犠牲を払う必要
  • 「力を尽くして神を愛しなさい」 → 礼拝にはエネルギが必要
  • 礼拝は、自分に都合の良い、快適なものではない。意志の行為。

 問題の核心は、こころの問題なのです。


3.テキストを読んで


 第一印象として、ここに書かれているような形で礼拝を献げることはかなり難しいと感じる。ここで語られていることは、レベルが高い。教会の礼拝を思い描きながら、この13日目のテキストを読んだが、礼拝は共同体的なものであり、高い水準の話しをされても、ついて行けないという印象を受けた。本当はついて行きたいのだが、一人ではどうにもならないもどかしさを感じる。


 我々の礼拝との関連で感じたことを述べてみる。

  • 礼拝は正しくなされることを神は喜ぶ。自分の礼拝したいと思っている神の理想像を描く人が少なからず現実にはいると思う。あるいは、神を崇めるとは言いつつも、神を自分のために奉仕させようという心が、私たちの中にある。神の主権よりも自分の気持ちが優先する。聖書はそういうけど、・・・・、人間とはこういうものだ・・・と福音によって変えられる可能性を認めない発言を聞いたりすると、礼拝が正しくなされることはまだ遠いと感じる。
  • 礼拝は本物であることを神は喜ぶ。神は、私たちの心の態度をご覧になる。私たちの霊は本当に神に応答しようとしているのだろうか。礼拝に出席して、自分は信仰者としてきちんとしているという自己満足を求めていないだろうか。
  • 礼拝が思慮深いものであることを神は喜ぶ。祈りにおける決まり文句。礼拝のマンネリ化。牧師にも責任はあるが、新しいことを提案すると喜ばれない古さ。
  • 礼拝が実際的であることを神は喜ぶ。御言葉を実践するということの理解の差があるが、ディボーションをしてから、御言葉を実践することを意識した。神の教えを知ることと、神の教えを実行することは違う。その認識が弱いのではないか。


 ここに書かれていることは、私たちのレベルを超えている。

 礼拝には、共同体的な側面と個人的な面がある。ディボーションを通して、神のみ言葉を適用し実践していく姿勢が築かれていくなら、その個人礼拝は神に喜ばれるものになる。


4.熟考するポイント

「神は私のすべてを求めておられます」

 神との友情を育むことを学んだ。神との友情を育めば、自分のすべてを神に献げることになるし、神の栄光のために生きることになると思う。個人的には、召しを受けて牧師となり、神様に生涯を捧げているつもりである。時に、御言葉に抵抗する思いを感じるので、事実としてはすべてを献げていないのだろう。自分が整えられ、すべてを献げる者になりたい。


 すべてを献げる面で、私たちにとってよい模範となる人がいるとありがたい。模範となる人が少ないところに、私たちの信仰の弱さがあると思う。お互いに良い面を模範として向上を目指すことが大切である。


5.考えてみよう

「私の公同の礼拝と個人の礼拝とでは、どちらが神に喜ばれるでしょうか。 このことに関して私は何をしたらよいでしょうか」。

 私が行っている個人礼拝、公同礼拝のどちらを神は喜ばれるのか。両方とも精一杯礼拝を献げているつもりである。成長を目指し、途上にある者として、足りない点はあると思うが、精一杯礼拝を献げていると思っている。成長をさらに目指し、さらによい礼拝を献げたい。