クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.12.27)
聖書 ヨハネ 21:15〜19 イエスに赦され、イエスを愛して、イエスに従う


 イエスを裏切ったペトロ、自分の弱さ、無力さにどれほど打ちひしがれたことでしょうか。どのようにして立ち直ることができるのでしょうか。


1.罪を犯す者を顧み、赦すイエス


 イエスが死んだ後、イエスの弟子たちが、故郷のガリラヤに帰り、ガリラヤ湖で漁をしていました。夜に漁をし、収穫がゼロでした。夜明け頃、イエスが来て、舟の右側に網をおろしなさいと声をかけます。網をおろすと魚がたくさん捕れます。弟子たちは、岸に戻り、イエスと共に朝の食事をします。そして食事が終わるとイエスは、ペトロに声をかけます。

ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。

 イエスはなぜ、ペトロに声をかけたのでしょうか。ペトロは、イエスの一番弟子と言われる人でしたが、イエスを見捨て、三回もイエスなど知らないと言って、イエスを裏切った弟子でした。イエスは、そのペトロに語りかけるのです。イエスはペトロに再び、弟子としてイエスの働きを受け継ぐように願い、声をかけられたのです。


 人は、失敗を恐れます。失敗したことが明らかになれば、自分が惨めだし、人も自分のことを悪く評価すると考えます。だから私たちは失敗を避けようとします。立派に成し遂げる自信のないことは、頼まれたら、断ります。教会のことで奉仕を求められたとき、失敗を恐れ、立派に成し遂げられないことを恐れ、断ることがあります。


 自分ができるからする、できないからしないという考え方は間違っています。なぜでしょうか。そういう考え方の心の底には、立派に行う自分を喜びたいという思いがあります。失敗する自分、惨めな自分は見たくないのです。つまり、立派な自分、よくやっている自分、つまり自分の栄光を求める生き方なのです。人の目を気にして、立派な自分でありたい、惨めな自分をさらしたくないという思いに支配されているのです。


 しかし大事なのは、人からどう思われるかではなく、神からどう思われるか、です。高慢で卑劣なペトロを赦し、イエスは彼を用いようとされます。神は、事を立派にできる人を用いません。

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリント一1:27)。

「私はできます」という人を神は用いないのです。なぜなら、その人が「自分はできた」と誇ることを神は望まれないからです。むしろ、「しなさい」と神が命じたとき、素直に「わかりました。します」と返事をする人を神は喜ばれます。神はその人に必要な力を与え、導きを与えられます。その人の力が足りないときは、助ける人を与え、必要なら奇跡を行われます。


 大事なのは、失敗しないことではなく、神に用いられることなのです。大事なのは、立派な自分を見せることではなく、神の呼びかけに素直に応じることなのです。イエスは、イエスを裏切り、内心打ちひしがれているペトロに声をかけられます。ペトロを再び用いるためです。


 私たちは失敗してもいいのです。失敗を恐れなくても良いのです。失敗から学び、用いてくださる神様に答えていくことが大切なんです。そもそも失敗しない人なんていません。失敗は次の成長のために必要なものです。失敗してもくじけずに神に用いられ続けるとき、自分の栄光ではなく、神の栄光を求める歩みが整えられていきます。イエスは、失敗して打ちひしがれている者をさらに用いようと声をかける方なのです。


2.多く赦される者がイエスを愛する 


 ペトロは、イエスの質問に

「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」

と答えます。直接的に「愛しています」と言わず、「あなたがご存じです」というのです。なぜでしょう?


 ペトロは、自分の気持ちが当てにならないものであることをはっきりと知らされました。だから、たとえイエスを愛する思いがあっても、「愛しています」とは、言いにくかったのです。


 イエスはなぜ、ペトロに、指導者の地位を与えようとするのかと考えます。福音を伝える大切な働きを弟子たちがイエスから受け継ぐわけですが、どうしてペトロが指導者になるのか。弟子たちの中で一番ひどい裏切りをしたペトロよりも他の弟子のほうが指導者にふさわしいのではないかといます。イエスがペトロを選ばれたのは、恵みによる選びです。失敗した者を選び用いる恵みの選びです。


 ここで考えたいことは、イエスを愛することのできる人は誰か、ということです。イエスを心から愛することのできる人は誰か、という問いです。イエスの言葉があります。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:47)。

 多くの罪を赦された人ほどイエスを愛するというのです。自分は立派に生きていると考える人はイエスを愛さないのです。イエスを十字架につけた人たちはファリサイ派とか律法学者とか呼ばれる人たちで、彼らは、神の戒めを守っていると自負した人たちでした。しかし、罪人と人々からさげすまれ、神の教えと無縁な生活をしていた人々をイエスは愛しました。イエスは、彼らを罪人と決めつけ、嫌うのではなく、むしろ赦し受け入れたのです。だから、罪人と人々からさげすまれた人々は、イエスを愛したのです。


 ペトロは、あなたのために命を捨てると立派なことを言いながら、裏切るというひどい罪を犯したのです。その罪を赦されるとき、イエスに対する深い愛がペトロの心の中にあふれてくるのは自然ではないでしょうか。


 イエスから非難されても当然です。高慢だ、卑劣だ、と責められても仕方がないのです。しかし、イエスはペトロを赦し、ご自分に対するペトロの愛に信頼し、ペトロに教会の指導者となることをゆだねるのです。自分を赦すだけではなく、信頼してくれるのです。感謝と共にイエスを愛する気持ちが強められるのです。私たちが失敗しないようにしよう、立派にやろうと考えるとき、私たちは自分のことを考えているのです。イエスを愛するより、イエスに認めてもらいたいと考えるのです。


 私たちは、自分の罪を認めることをためらいます。認めたくないのです。自分を正当化したい、人のせいにしたいのです。それは罪人の姿です。あるいは悔い改めると言っても、その言葉が軽いのです。私たちの悔い改めが本当の悔い改めかどうかは、イエスへの愛が増したかどうかでわかります。イエスへの愛が増し加われば、同じ罪を二度と犯したくないという気持ちが強められます。繰り返したのでは、イエスに申し訳ないという思いになるからです。自ずから、罪を犯さないように助けてくださいという祈りが導かれます。


 悔い改めると、私たちは赦しを受け取ります。赦しを受けるとき、イエスへの愛が増し、罪を乗り越える力が与えられます。罪を正直に認め、赦しをいただくとき、イエスに対する愛が私たちの内に増し加わっていくのです。


 イエスの喜ばれる働きは、私たちが心からイエスを愛して行う働きです。イエスへの愛があるとき、私たちは「しなければならない」とか、「認めてもらいたいから」という思いから解放されます。喜んでイエスに従うことができるからです。


もし私たちが

  • 自分の罪をあいまいにしないなら、
  • 悔い改めをおろそかにしないなら、
  • 口先だけの悔い改めではなく、本当に悔い改めていくなら、

エスへの愛が増していきます。そして喜んで、神に仕える奉仕ができるようになります。だからイエスは、ペトロに、「わたしを愛するか」と質問しました。


3.イエスに従う 


 イエスは、ペトロを教会の指導者として立つように命じました。同時にイエスは、ペトロの最後について語りました。

「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(19節)。

「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」。


 これはペトロが年をとったら殉教の死を遂げることを物語っています。他人に帯を締めてもらうとき、両手を広げます。両手を広げることは十字架を暗示します。しかし、殉教の死を遂げることによって、ペトロは神の栄光を現すとイエスは告げました。


 この19節の言葉は、身近に感じる言葉です。私たちも若い時は、自分の思い通りに行動することができます。しかし年老いると、他の人に帯を締められたごとくになります。つまり人の世話になるために、不本意な生活を強いられます。これは信仰者も例外ではありません。子供の世話を受けるために住み慣れた土地を離れるとか、一人では生きていけないので施設に入るとか、子供たち家族と一緒に暮らしていてもひとりぼっちだとか、不本意な生活を強いられます。


 神様は、信じる者に対して、自分の思い通りになる生活を約束しません。年老いて心身の衰えから、人は不本意な生活をせざるを得なくなります。何のために生きるかを考える余裕もなく、一日を生きることが、大変なことになったりします。そこで改めて思います。信仰者は何のために生きているのでしょうか。


 今日のイエスの言葉は、神の栄光のために生きる、それが信仰者の人生の目的だと教えています。20節で、イエスはペトロに「私に従いなさい」を命じました。そこで思い出すのが「クオバデス」という小説です。この小説の最後の部分で、ペトロはローマの町を去ろうとしています。迫害を逃れ、次の活動に備えてください、とローマの信徒たちから懇願されて、ローマを去るのです。


そこにイエスが現れます。

「主よ、どこに行くのですか」

とペトロがたずねると

「あなたがローマを出るなら、私がローマに行く」

とイエスは答えます。それを聞いて、ペトロはローマに戻るのです。


 イエスに従う、それが一番大事なのであり、自分がどんな目に遭うのかは二の次なのです。それが神の栄光を現す生き方なのです。神の栄光を求める、それが実は、人生の様々な困難、試練を乗り越える力を与えるのです。


 他の人に帯を締められて行きたくないところに連れて行かれる中で、自分の思い通りにならない老いの生活の中で、どのようにして、幸せを求めることができるでしょうか。神様に向かうほかありません。そして神に向かうことが十分にできるのが老いの時期です。いろいろな責任から解放されて、時間が豊富にあります。老いの中にあっても、聖書を読み、祈り、神との交わりを深め、家族を愛し、教会を愛し、信仰の友を愛する歩みを日々続けるのです。何よりも神様を賛美する生活を求めるのです。


神の栄光のために生きる、それが老いを生かす生き方です。


祈り

 天の父、私たちは弱く、限界があり、不十分なことしかできない者です。しかし罪赦され、主イエスを愛する思いが豊かにされることを感謝します。こうして喜びをもって神様をあがめ、神様に仕えることのできることを感謝します。
 天の父、あなたの栄光を現すことを第一とするとき、人生の様々な困難、試練を乗り越える力を与えられることを教えてください。そして老いの時期、不本意な生活を強いられるときも、なお神様をあがめ、神様の栄光を現す歩みができるように支えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。