本日のメッセージ(2011.2.6)
聖書 ルカ4:1〜13 主を拝み、主に仕えよ
皆さんのところに電話がかかってこないでしょうか。「必ず儲かります」という勧誘の電話。うまい話はないと頭ではわかっていても、勧誘の話のうまさについつられてしまうということが後を絶ちません。人間に欲がある限り、私どもは、誘惑にさらされます。
また恐れや不安も、私どもを誘惑にさらします。主イエスの弟子のペトロは、恐れのために、「あの人は知らない人だ」と主イエスのことを裏切りました。恐れや不安は、私たちを安全な方向に向かわせようとします。そして、あんなことをしなかったら、と後悔したり、事態に向き合うことを避けて問題を先送りにしたりします。
この誘惑物語の最初に、主イエスは霊によって荒野の中を引き回されたとあります。神の霊が主イエスを荒野に導いたのです。そこで主は悪魔の誘惑にあわれたのです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「誘惑」と訳されるギリシャ語は、また「試練」とも訳されます。一つの出来事が、誘惑となり、試練なります。
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブル5:8)。
誘惑、試練の時、それは神に対する従順を学ぶ時なのです。
5節。悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せたとあります。一体、悪魔は何を見せたのでしょうか。主イエスは何を見たのでしょうか。6節で、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と悪魔は主イエスに語っていますから、国々の一切の権力と繁栄を見せたと言うことでしょう。
どのように何を悪魔は見せたのでしょうか。この場面を映画にしようとしたら、映画監督としてあなたはどのようにこの場面を描くでしょうか。たとえば
- 権力者が人々を従え、自分の思い通りに国を支配している姿、
- 人々が彼にひれ伏す姿、
- あるいはぜいたくな暮らしぶり、
- 彼が住む宮殿の壮麗さ、
- あるいは、彼が築いた都市あるいは町の素晴らしさなどを、
次々に絵巻物のように主イエスの目の前に繰り広げるように描くかもしれません。
そのような光景が、主イエスにとってどんな誘惑だったのでしょうか。悪魔はここで人間の権力欲、名誉欲に目をつけて誘惑していると言ってよいと思います。権力を握って自分の思い通りにする、あるいは自分の力を最大限に生かして成功して栄える。これは誰にもある欲です。
牧師も神に仕える働きをするからこそ、誘惑にさらされます。
- 一人でも多く信者を生み出したい、
- よい説教をして喜ばれたい、
- 多くの人が集う礼拝を守りたい、
- 周りからすぐれた牧師だと言われたい、
- 聖書から示されたイメージに従って教会を築くために、信徒を動かしたい、
など、権力欲、名誉欲は、悪魔の攻撃の絶好の対象です。そのおかげでいろいろ悩みます。焦ります。自分を責めたり、空しさにとらわれたりします。
仕事において、家庭において、思い通りに事を運びたい、人を自分の願うように変えたい、という願いは、誰もが持つ思いでしょう。人から認められたい、ほめられたい、出世したい、賞を得たい。誰もが持つ欲です。
主イエスにとって悪魔の誘いは、誘惑になり得たのか、と疑問に思う人もいるでしょう。主は神の子だし、悪魔の誘いは、主にとっては誘惑にはなりえなかったと考えるのです。しかし、
「罪は犯されなかったが、あらゆる天において私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブル4:15)
とあるように、悪魔の誘いは、主イエスにとっても事実誘惑だったのです。主にとって誘惑であったから、誘惑にあう私たちを主イエスは助けることができるのです。
主イエスは、神の国の福音を宣べ伝え、多くの人を神に立ち帰らせるという働きをします。神がまことにおられるということを示すために、病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、奇跡を行いました。また人々に教え、人々はその教えに権威があることに驚きました。多くの人々が主イエスに付き従いました。そして主イエスこそ、救い主ではないかと期待しました。人々の要望に応えれば、たくさんの人がイエスを信じ、イエスを救い主と受け入れたでしょう。十字架にかからず、ローマ帝国の支配からの自由をイスラエルのために勝ち取れば、救い主としての主イエスの働きは大きな成功をおさめたでしょう。
主ご自身、十字架にかかる前の晩、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。十字架にかからないで救い主としての働きができるなら、そうさせてください、と祈ったのです。十字架の死は神に見捨てられるという私どもの想像を超える苦しみを伴います。苦しみは避けたいという誘惑にさらされたのです。主イエスは人間として、悪魔の誘惑にあわれたのです。
誘惑とは、私どもの考え方、生き方への挑戦です。金が火で精錬されて純度が高められるように、誘惑、試練は、私たちの信仰を本物にしていくのです(ペトロ一1:7)。
悪魔は「一切の権力と繁栄はわたしのもので、私はこれと思う人にあげることができる」と言いました。そして、私を拝めば、あなたのものになると誘惑しました。しかし、悪魔は偽り者です。ここで大切なことは、悪魔は真実を語っていないということです。偽りを語り、人をだますのです。悪魔は偽りを語る者だ、ということを忘れてはなりません。
創世記の3章に、蛇が登場します。神はエデンの園にいるアダムに、園の中央にある善悪を知る知識の木の実を食べてはいけないと命じます。食べるときっと死ぬから、と警告しました。しかし蛇は、神がとって食べてはいけないという木の実をアダムに食べるようにそそのかします。木の実を食べても死なないし、食べれば、神のように賢くなるというのです。神の言うことを聞くより、蛇の言うことを聞いた方がよいのではないかと思わせるのです。食べた結果どうなったでしょうか。エデンの園を追放され、生涯、食べ物を得ようとして苦しみ、そして死ぬのです。良いことは何一つありません。
悪魔の言い分にだまされてはいけないのです。悪魔は、一切の権力は私に任されていると言いましたが、主イエスは言います。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。主イエスこそ、すべての権威を持っている方なのです。この主イエスの言葉こそ真実であり、悪魔の言葉は偽りです。
しかし、つい悪魔の言うことは本当かも知れない、と人間は考えてしまうのです。なぜ、悪魔の言葉に耳を傾けてしまうのでしょうか。
悪魔は言います。「わたしを拝むなら」。悪魔を拝むといっても、悪魔崇拝をするわけではありません。悪魔を拝むといっても、悪魔のことは私たちはよく知りませんから、拝むにもどう拝んでよいかわかりませんし、悪魔を拝みたいなどと私たちは思いません。
では、悪魔を拝むとはどういうことなのでしょうか・・・。それは、神を拝まないこと、あるいは二心を持つことと考えます。二心とは、心が分かれると言うことです。ある時は神を信頼するけれども、ある時は、神よりも別のものに頼るというように、心が一筋に神だけに向かわないのです。
アダムとエバは、それまでは心が神に向いていたのに、蛇が登場すると蛇の言葉に心が動いたのです。神の言われることと蛇の言うことが違っているとき、心を一つにして、つまり神の言葉に立てばよいのに、蛇の語る言葉に心を向けたのです。
神に対する従順、神に対する信頼で心が一つになっていればいいのに、心が分かれるのです。神はそう言うけど、蛇のいうこともいいのではないか。このようにして、神の言葉よりも自分の思い、考えを上に置くのです。
二心を持つとは、神に従いたいという思いと、自分の思い通りに生きたい、自分の心の欲するままに生きたいという思いが共存することです。
神の言うことはもっともかもしれないけど、<俺は俺のしたいように生きていきたいんだ>という本音が人間の心には潜んでいるのです。この本音のために、偽りを語る悪魔の誘いに乗ってしまうのです。この本音があるために、誘惑にあうとき、それがいけないとわかっていても自分の欲・思いを満足させようとするのです。
自分が弱いから誘惑に負けたというのは言い訳です。心の底では、自分の欲を満足させたいという本音があるのです。ペトロにしても、自分の身の安全こそ、大事なのだという本音があるのです。パウロという伝道者はローマの信徒への手紙で語ります。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:15〜20)。
人間の心の奥に罪が住んでいるのです。
「私は自分のやりたいように生きたいんだ。それがなぜいけないんだ」
と叫ぶのです。神は、自分が困っているとき助けてくれればいい、それ以外の時は自分の自由にさせてくれ、と叫ぶ罪が、心の奥に潜んでいるのです。
そのように生きている人間には、神の怒りが望むと聖書は書いています。「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェソ2:3)。
このように生きている人間には破れがあります。人生うまく行かないのです。しかし、神は憐れみをもって私たちを救いに招き、破れを繕ってくださるのです。神は主なる神です。私たちの主となり、私たちの人生にすべての責任を負ってくださるのです。
人間は、
- 自分の心の欲するままに生きて悪魔の術中に陥って生きるか、
- 神を信じながらも、誘惑にさらされ、二心の故に心が揺れ動き、後ろめたい思いを抱きながら生きるか、
- まっすぐに神に信頼を寄せて生きるか、どれかを生きることになります。
二心から解放されるためには、誘惑は大切な機会です。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブル5:8)。誘惑、試練の時、それは神に対する従順を学ぶときです。
イスラエルの人々は、エジプトから救出されたことが、信仰の原点でした。その救いの故に、エジプトから救出してくれた神だけを神として崇め、神に従って生きることが求められました。それが信仰に生きることでした。私たちは、罪と死の支配から救われたことが信仰の原点です。この救いの恵みの故に、二心なく、ただ一人の神に、私たちの心を向けるのです。
「あなたの神である主を拝み」。神は「主」です。「主人」の主です。神が主であるということは、神が私たちの全責任を持ってくださるということです。そしてそのことに全幅の信頼を置くのです。そこで、主なる神だけを拝み、ただ主に仕える、ということを別な表現で言い表したいと思います。
私は、
- 主なる神が、すべてのことを私たちの益となるようにすることができると信じます。
- だから、いついかなる時も、この神に信頼します。神の御心に従います。
- 神が当てにならないような状況は存在しないし、自分で何とかしなければならないような状態は存在しないと信じます。
- 神こそ、私たちの導き手であると信じ、何があっても、神に従います。それが、私たちにとって最善であると信じます。
天の父、あなたを崇めます。
今日もあなたに礼拝を献げることができたこと、聖書の説き明かしを受けることができたことを感謝します。
あなたによって救われた恵みに心をとめ、ただあなただけを神とすることができますように。
神様のみ声とは異なる声に耳を傾けることがありませんように。私たちの内から出てくる思いが、あなたの思いと異なるときは、あなたに従うことができますように。
あなたは主なる神として、私たちのすべてを責任を持って導いてくださることを信じ感謝します。
あなたのみを崇め、あなただけに使えることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。