クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 昼は日差しが強かったが、風がさわやかで夏が終わったと感じる。そして夜は、虫の鳴き声が土の少なくなった町の中でも、草むらの中から聞こえてくる。心を静めて虫の声に耳をすませていると心が安らぐ。


 パウロの二つの言葉が心に残る。一つは昨日、石川地区の青年会のデボーションの集いで読んだ聖書の箇所から。

「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(テモテ一2:6)。

 パウロは、イエス・キリストの十字架の死について語るのだが、「キリストは私たちの罪の贖いのために死なれた」という表現をここではしない。つい説教などでも「わたしたちのために」と言いたくなる。つまり、発想が自分中心なのである。「わたしのために」キリストが死んでくださった。しかしパウロは、ただキリストはすべての人の贖いとして「ご自身を献げられた」とキリストに注目している。


 「すべての人の贖いのために」。つまり「すべての人のために」キリストは、ご自身を献げられたのである。他の人のために何かをしようとするとき、この人のためならしてもよいとか、あんな人のためにはしたくない、などとと考えがちである。自分の行いに値する人とそうでない人を区別するのである。そういう考えは我々に根強くある。しかしキリストは、「すべての人のために」。そこには何ら区別がない。あんな人のためにもささげたのである。「わたしは、この徴税人のようなものでもないことを感謝します」(ルカ18:12)と自分の義を誇る者がいるが、その義は、神の目には傲慢であった。神様の目から見れば、人間同士の差異などささいなものなのだろう。人は皆罪人なのである。「その罪人のために」イエス様は御自分の命を献げられた。キリストの献身


 もう一つの言葉はテサロニケの手紙一にある。昨日読んだ聖書の箇所にある言葉。

「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」(2:19〜20)。

 パウロはテサロニケの教会の人々に向かって、あなたがたは、わたしの「誇るべき冠」「誉れ」「喜び」と語る。牧師からすれば、牧会する信徒が、自分の「誇るべき冠」「誉れ」「喜び」だというのである。うっかりすると牧師の口からは、「信徒がもっとこうであればいいのに」という愚痴が出てしまう。だから牧会者としてのパウロの言葉に驚く。


 パウロは神に召されている。僕も牧師として召されている。召された者は忠実に務めを果たすのである。果たすことができたことをもって満足し、感謝すればいいのである。良い結果がでれば喜べばいい。良い結果が出なくても、それは仕方がない。人を変えるのは神であり、牧師は、祈りつつ務めを果たすのみ。いや、そうじゃない。これじゃあ、何かやせ我慢しているみたいだ。大切なことを忘れていた。パウロも牧師も仕える者であること。仕える者は、なすべきことをする、それ以上でもそれ以下でもない。そこに献身するのである。イエス・キリストも仕える者として命を献げられたのだ。


 パウロの働きにテサロニケの人々は応えた。信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐。テサロニケ教会の人たちの誠実な歩みを神が導き、地域の模範となる教会となった。パウロが「誇るべき冠」「誉れ」「喜び」と語るのも分かる。僕も仕える者として自分を献げ、信徒たちを誇るべき冠とし、また誉れ、喜びとしていきたいと思う。感謝なことに誇るべき冠とすることができている。