↑中日新聞(9月28日より)
御嶽山の噴火、驚きました。私も山が好きなので、山で犠牲となった方たちの無念さや、ご家族の悲しみを思います。自然は侮ることができませんね。自然の前に謙虚になる必要があります。
ニュースで噴煙の中を帰還した人たちの話も放映されていましたが、生死を分けるものって何なのか、と思います。噴火が起きた時にいた場所で、生死が決まることもあるだろうし、噴火のために飛んでいる噴石に当たるか当たらないか、運が左右したとしか言いようがないように思います。神を信じる者が<運>を語るのは本来おかしいのですが、助かった人は神に守られたとか、犠牲になった人は神に守られなかったなどとは、到底言うことはできません。人の生死は神の御手にあると信じますが、人間の思いの及ばないところにあるのだと思います。
昨日の月曜日は、忙しい日でした。午前中は、牧師小グループ。内容はデボーションの分かち合いです。牧会の苦労の中で聖書の言葉から深い示唆を与えられた証しを聴き、うれしく感じたことです。午後は、教会員に対するデボーションの学び、その後はキリスト教入門。
このキリスト教入門では、テキストを読んだ後の話し合いが中心となっています。アシスタントをお願いした教会員の方には、証しをしていただくようにしています。牧師と学ぶ人との間に、教え・学ぶ関係をつくるのではなく、牧師も、アシスタントの方もテキストに書かれている福音の真理が本当ですと証しをするような、そんな学びです。単に教理を学ぶというのではなく、その教理に生かされている信仰の証を語り、伝える、そんな学びで、私は楽しみにしています。