クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


本日のメッセージ(2007.4.8)

ルカ 24:36〜49 復活の証人

今日はイースタです。イエス・キリストが十字架の上で死にましたが、三日目に復活されたことをお祝いする日です。しかし死者の復活、それは信じがたい事柄でもあります。


 イエスの弟子たちも、女性たちがイエスは復活したと告げた時、それを戯言と受け止めました。使徒パウロアテネの町で伝道した時、ギリシャ人はあざ笑いました。しかし、キリスト教の始まりは「十字架で死んだイエスを神はよみがえらせた」とイエスの弟子たちが宣べ伝えたことから始まったと言うことができます。

 私もかつて、奇跡、復活が信じられなくて、そもそも目に見えない存在を信じることに困惑を覚えました。ある時、悟りました。聖霊の導きというのでしょう。神は全能の神である! 神が全能なら、奇跡だって、復活だって、あり得る話。全能の神を信じるなら、復活を信じるのが合理的。今日の聖書では、イエスが現れた時、亡霊を見ていると思っている弟子たちに対して、「私の手足を見なさい、触ってみなさい」と告げ、さらには魚を食べ、亡霊ではないことを示されました。

 そしてイエスは弟子たちに聖書を悟らせようとして、彼らの心の目を開かれたとあります。

聖書を悟るってどういうことだと思いますか?

 意味が通じること、なのでしょうか。聖書は読んですぐ理解できるとは限りません。意味が通じない箇所があります。繰り返し読み、あるいは、前後の流れを考えながら、意味を理解することがあります。悟るとは、意味が通じることなのでしょうか。

 聖書を悟るとは、意味が通じる以上のことです。それはあたかも、隠れていたものが見えるようになるです。聖書には、目が開けて見えるようになる経験をした人の話がいくつかあります。列王記下6章には、預言者エリシャの召使いの目が開けて、火の馬と戦車を見たという話があります。またエマオ途上の弟子たちは、自分たちと一緒にいたのがイエスであることに気づかなかったのですが、目が開けた時にイエスだとわかったという話が今日の聖書の前の段落にあります。

 聖書を悟るとは、聖書が、神の言葉であるとわかること、真理であるとわかること、本当なんだと分かることを言います。するとその時、人は変わるのです。行動が生まれるのです!

 自分たちと一緒にいたのがイエスであるとわかった弟子たちは、すぐにエルサレムに戻り、イエスと会ったと他の弟子たちに告げました。
私にも聖書が神の言葉であると悟った時があります。その時以来、キリスト教信仰の特徴の一つは、神の約束を信じることにあると思っています。そして神の約束を頼みとして生きる、生き方に変化しました。

 イエスは弟子たちの目を開いて、メシアが、死んでよみがえることが聖書が預言していることであると聖書から説明されました。メシアが苦しみを受けることについては、イザヤ書53章にはっきりとかかれていますが、三日目の死者からの復活は、明示的はっきりかかれているわけではありません。復活を暗示させる内容があることは確かです。

 イエスご自身は、ヨナのしるしについて語られました。預言者のヨナが、三日三晩、魚の腹の中にいて、その後ニネベの町に行って、悔い改めるように人々に語ったという話です。

 イエスはさらに、罪の赦しを得させるための悔い改めがあらゆる国々に宣べ伝えることも聖書に預言されていると話します。そして弟子たちは、実際にイエスを宣べ伝えることになり、聖書の預言が本当であることの証人になるとイエスは語られました。

 イエスの十字架の死の目的の一つは、罪の赦しのためでした。罪の赦し、それは神の裁きからの救いであり、永遠の滅びからの救い、地獄からの救いと言われます。赦しにはそれ以外にも意味があります。赦しとは、関係の回復もたらすものです。神との関係の回復です。

 罪の赦しがあらゆる国に宣べ伝えられるとは、イエス・キリストが人類の救い主であること。神がすべての人間の神となられることを意味します。あなたが信じるのを待っておられる神、あなたの神になろうとする神がおられるのです。

 聖書を悟る時、あなたは神を信じるようになるでしょう。聖書を悟る時、信仰の行動が生まれてくるでしょう。信仰の歩みは聖書を悟り続ける歩み。