クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.1.2)
聖書 ルカ 3:1〜14 恵みの悔い改め


 ヨハネが宣べ伝え、主イエスが宣べ伝えた救いは、罪の赦しによる救いです。罪からの救いです。一般的に言えば、「救い」には、さまざまな救いがあります。窮地から助け出されることはすべて、救いです。病気からの救い、借金地獄からの救い、遭難からの救い、アルコール依存症からの救い。いじめからの救い。いろいろな救いがあります。


 聖書が告げるのは、罪からの救いです。これは、人間の存在の根本に関わる救いです。人の生き方を転換させる救いです。それは罪の赦しによる救いです。そして罪に支配されない、罪からの自由という救いです。この救いの必要について、人はなかなか気づきません。だから教会は、罪の赦しによる救いを福音として宣べ伝えてきました。そしてこれを聞いた人の中から救われる人々が起こされてきました。主イエスの弟子たちが、福音を宣べ伝え続けてから今日に至るまで、そしてこれからも教会は罪の赦しの福音を宣べ伝え続けていきます。


 ヨハネの母エリサベトは不妊の女性で、子供が与えられず年をとりました。ある時、夫のザカリアがエルサレム神殿で祭司としての務めを果たしていた時、天使が登場し、彼に告げました。「あなたの妻エリサベトは子を産む。その子は、イスラエルの多くの子らを神である主のもとに立ち帰らせる」。ヨハネは、神のご意志によって、特別な働きをするように定められていました。イスラエルの民を神に立ち帰らせる働きをするというのです。神に立ち帰る、これが罪からの救いです。

 人間は社会をつくり、法を定めてきました。社会の中で人々が安全に平和に暮らしていくためです。秩序を定めたのです。そこには、社会の一員として果たすべき義務が定められ、それを守らないなら、罰を与えることが決められています。罪を犯すというと、法を犯すことと考えがちですが、聖書が罪を犯すということを語る時、それは人間が定めた法を破ることを意味してはいません。


 人間は神さまによって造られたと聖書は語ります。神さまは人間の創造主です。私たちは、この神様の前に生きるのです。神さまが人間を造られた時、神に似せて人を造ったこと、男と女に造ったことが聖書に書かれています。人間が男と女に造られたことは、人との関わりを大切にして生きるように、また神に似せて造られたことは、神との関わりを大切にして生きるように造られたことを意味しています。この関わりをないがしろにすること、それが罪です。罪の第一は、神を信じないこと、神の心を大切にしないこと、神から離れて生きることです。この罪を犯す時、人の心を大切にしない罪が生まれます。
創世記の三章で、神をないがしろにし、取ってはいけないと言われた木の実を食べたアダムは、神からそのことをとがめられた時、妻のアダムに責任を転嫁しました。妻の心を軽んじたのです。


 この罪の心から、さまざまな悪の行いが生じます。たとえ法を犯さなくても、私たちが罪を犯した時は、心が痛みます。良心の呵責を覚えます。心が鈍くなると呵責を覚えなくなり、平然と罪を犯すようになります。知らずに犯すことになります。また人間は育てられて成長します。罪を罪と知るように育てられることが大切ですが、そのように育てられる人は多くありません。だから、罪を知ることなく人は生きていくことができます。


 私たちは、自分の行いを悔いることがあります。あんなことをしなければ良かった、こんなことをしなければ良かった、と。そういうことを繰り返しながら生きています。そして二度と繰り返すのをやめようと心に決めます。このような後悔や反省は、聖書が言う悔い改めとは異なります。


 聖書は「悔い改め」を語ります。ヨハネは、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、と書かれています。聖書が言う悔い改めとは、自分の行いに対する後悔ではないし、反省でもありません。ああいうことは二度とするのはやめようという決心でもありません。


 聖書は悔い改めのことを「方向転換」といいます。罪という言葉も、的外れというのがもともとの意味です。神に造られた人間が、自分の創造主のことを知らずに生きる、それが的外れな生き方なのであり、そこから的外れな生き方が生じます。それが罪なのです。罪とは悪事とは限りません。神から離れたあり方、神を知らすに生きること、それが罪なのです。そしてそのような生き方から生まれる行為、それが具体的な罪となります。的外れをやめること、そして的を射る生き方、つまりそれは神を信じて、神と共に生きることを始める、それが悔い改めです。だから、悔い改めとは、神に立ち帰ることを意味します。生き方の転換です。


 聖書には、ザアカイという人が登場します(ルカ19章)。彼は徴税人でした。イスラエルを支配しているローマ帝国の手先となって、税金を集める仕事をしていました。私腹を肥やし、人々から嫌われるのが徴税人でした。その彼が主イエスと出会った時、悔い改めました。そして主イエスに言うのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。金の亡者から、公平を心がける人に生き方が変わった、生まれ変わったのです。


 イザヤという人は、自分が神の前に出ているという感覚を感じた時、「災いだ、私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者」(イザヤ6:1)という告白をしました。己の罪のゆえに、自分は滅びる者でしかない、と感じたのです。その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に変わっていくだろうか」と神が言った時、「わたしがここにおります。私を遣わしてください」と言いました。そしてイザヤは、預言者としての歩みを始めました。


 主イエスの弟子となったペトロ。彼は漁師でした。彼は夜通し漁をしましたが、収穫は全くなかったのです。漁を終えて帰ってきたペトロに主イエスは、「沖にこぎ出して網を降ろして漁をしなさいと命じます。夜が明け、明るいときは漁をする時間ではないのです。「漁のことを知らないのになんてことを言うんだ」との思いがペトロの中にはあったことでしょう。しかし「お言葉ですから」と言って、主イエスの命令通り網を降ろすと思いがけない豊漁で、これを見たペトロは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と告白します。そしてペトロは、主イエスの招きに従い、主イエスの弟子となっていきます。


 これらは、悔い改めが何かを具体的に表しています。神の前で自分の罪を知らされ、その罪の赦しを与えられて、生き方が変わっていくのです。罪を持った人間が、赦しを持つ人間に変えられるのです。心のどこかで、人間が変えられ、生き方も変えられるのです。罪の赦しというのは、私たちは自分という存在が丸ごと神様に受け入れられていることを知って喜び、神様に応えていこうという思いを与えられることなのです。神に応えて生きていく、つまり献身の歩みが導かれます。悔い改め、これは神様の賜物ということができます。


 ヨハネは、悔い改めの実を結べ、と説教をしました。生き方が変わったことを見せなさいと言うのです。人々がどうすればよいか、と聞く時、ヨハネは具体的な指示をします。ヨハネが示す行動は、ある意味、ささやかな行動です。<下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやりなさい。徴税人は規定以上のものを取り立てない。兵士は、金をゆすり取ったりだましたりしない>。特別なことではなく、すべきことを、普通に行いなさいとヨハネは告げています。


 赦しを受け、神に立ち帰る人は、自ずとそれにふさわしい歩みをするようにされることが示されています。悔い改める時、生き方が変えられるので、自ずと行動が変化してくるのです。頑張って努力して悔い改めの実を結ぶのではないのです。罪に支配されている時、支配されている故にできない当たり前のことを、悔い改めた心は当たり前のこととして行うのです。ここから、悔い改めというのは一回的な方向転換ということができます。悔い改めるとは、この一回的な方向転換の第一歩を踏み出すことです。


 信仰者の生涯は悔い改めの生涯です。洗礼を受けたとたん、完全な聖者になるわけではないからです。信仰の歩みは、聖化とも言われ、私たちは少しずつ聖い者とされていくのです。悔い改めとは、私たちの罪をほじくって、一つ一つ改めていくと言うより、私たちが神様によって造りかえられていることを確認することです。


祈り
イエス・キリストの父なる神様、御子イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪の償いの技を成し遂げてくださったことを感謝します。
あなたは私たちに悔い改めの思いを与えてくださり、私たちの罪を赦し、私たちの存在を丸ごと受け入れ、私たちを新しい人間として造り、生かしてくださっていることを感謝します。
あなたの憐れみによって、私たちの悔い改めの歩み、神様に立ち帰った者としての歩みを確かなものとしてください。そのために、私たちに聖霊を満たしてください。そしてあなたに喜ばれる歩みをすることを喜びとすることができますように祈ります。イエス・キリストの御名により祈ります。