クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.4.15)
コリント一 4:1〜5 忠実な管理者

 パウロ

「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(1節)

と述べます。パウロはここで使徒としての自分の存在意義を述べます。彼は、神の秘められた計画を宣べ伝え、それを実行するように神から使命を受けている、と。そのことをわかっているのか、とコリント教会の人々に訴えるのです。牧師もまた神から使命を与えられて教会に遣わされました。教会員の皆様も、牧師は何のために教会にいるのか、考える必要があります。

 パウロは「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と自分のことを述べます。「神の秘められた計画」とは何でしょう。

皆さんは知っていますか? 

「秘められた」とは、隠されていた、秘密にされていた、知ることができなかったとの意味です。パウロは、それを聖霊によって知らされました。

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(コリント一 2:10)。

 私は神の秘められた計画を知らなかったというか、不覚にも、深く意識していませんでした。神を信じる者が神の計画を知らないで生きるとしたら、その信仰生活は、道からそれたものと言えませんか。神の御力を得ることのできない信仰生活になりませんか。パウロは、コリントで、神の秘められた計画を宣べ伝えたと語ります(2:1)。

 神の秘められた計画とは何でしょう。その中心は、十字架につけられたイエス・キリストを通して人々を救おうとする神の御心です。このコリントの手紙では、

「十字架につけられたキリスト」

のことです。そして十字架につけられたキリストが「神の力、神の知恵である」ということです。

 エフェソ書では

「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(1:10)

が神の秘められた計画とされています。私たち神を信じる者は、この神の計画に無関心ではいられません。

 パウロは、コリント教会が、誰を指導者にしたらいいかと、内部で争い対立しているが、パウロもアポロもこの神の計画に仕えていることを知らないのですか、と叱るのです。指導者たちが何に仕えているのかを知らず、誰が良い指導者かと言い争う愚かさを指摘しています。牧師もまた、この計画のために仕える者であり、そのために神が教会に派遣した者なのです。

管理者に要求されるのは忠実であることです。

 管理者にとって大事なことは、忠実であることです。本当に忠実であるかどうか、それは神のみが知り、神だけが管理者を裁くことができます(4節)。

わたしを裁くのは主なのです。

だから、コリント教会の人たちが、誰が指導者としてよいとか駄目だとか、裁くのは論外なのです。パウロは人々の評価を気にしないと言います。パウロはさらに

「自分で自分を裁かない」(3節)

とも述べます。自分を働きが不十分だといって責めることはしないのです。自分の働きが不十分だから成果がないとか、俺の働きを見てみろ、やるじゃないか、と高慢になることもないのです。ただ神のみを畏れて忠実であることだけを目指しているのです。

 コリント教会の人にとって大切なことは、誰が指導者としてふさわしいか、を協議することではなく、神が指導者を通して何をなそうとしておられるかを理解し、共に神のみ業に仕えることなのです。それが

「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(1節)

の意味です。

 この聖書を私たちに適用するなら、神は教会に牧師を遣わし、その牧師を通して、神の計画を行おうとしておられることを考えるということです。神が牧師にどのような神の計画を任せ行わせようとしているのか、牧師は、神の計画をどのように理解して、それに仕えようとしているのか、教会員の皆様は理解することが大切だ、ということです。

 そして神は、

教会員の皆さんにも賜物を与えます。

皆さんは、神から与えられた賜物の管理者なのです。伝道一つとっても、新来会者に気軽に声をかける賜物、信仰生活の恵みを証しする賜物、信仰に導かれるように執り成しの祈りをする賜物、学びに参加しませんか、と働きかける賜物、これらの賜物が活用されるとき、神の計画が前進します。

 私は自分がゆだねられている神の計画をどう考えているのか、折に触れて皆さんに話してきました。皆さんが、それぞれの賜物を生かして、共に神様の計画のために仕えていきたいと願っています。神の計画に仕えて生きる、そこに信仰生活の喜びがあります。