クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.1.20)
コリント一13:4〜7 愛は礼を失しない

 今日福音として聞きたいことは、私たちは礼を尽くすことによって人を愛することができること、そして私たちの教会は愛の共同体になるということです。


1.あなたは思いやりを示すことによって礼を尽くすことができる。


 「礼を失する」というギリシャ語は、

恥ずべき振る舞いをする

という意味です。具体性に欠けます。他の聖書の訳を見てみます。

愛はふさわしくない振る舞いをせず(岩波)。

愛は不作法をしない(口語訳)。

愛は礼儀に反することをせず(新改訳)。

愛は非礼を行わず(永井訳)。

愛は礼を失しないを、愛は礼儀正しく振る舞うことと受けとめましょう。
私たちは、礼を尽くすことによって、人を愛することができるのです。私たちの教会は、互いに礼を尽くすことによって、愛する共同体となるのです。
ところで礼儀とかマナーというと、一種の規範を示します。たとえば冠婚葬祭で、こういう場合にはこうする、という決まりめいたものがある。それを守ることが礼儀にかない、それに従わなければ、失礼になると考えられます。そこで失礼とならないように、礼儀正しく振る舞うにはどうしたらよいか、を考えます。冠婚葬祭に限らず、こういう場合にはこうすることが礼儀にかなうという規範があります。

 家族でも朝目が覚めて顔を合わせたら「おはよう」と挨拶をするとか。私たちはこういう規範を守ることによって礼儀正しく振る舞うと考えます。この場合、私がいかに礼儀正しくあることの関心があります。

しかし、愛は礼儀正しく振る舞うという時、私たちは相手のことを考えています。これが世間の常識と違う点です。礼儀正しく振る舞うとは、相手を思いやる態度、行動を示しているのです。

「礼を失する」と訳された言葉が、7:36で使われています。「もしある人が自分の婚約者に対して、情熱が強くなり、礼を失するようなことを考えているなら、結婚しなさい」と訳せます。

パウロは、もうじき世の終わりが来るから、婚約者がいたとしても結婚しない方がよい、独身を勧めています。でも婚約者と結ばれたいという思いが強いなら、結婚してもよいと語ります。結ばれたいという思いに勝って独身でいることができない、ある意味の弱さを持つ人に、結婚しなさいと語り、信仰の弱さを認めています。弱い人を思いやる気持ちが表れています。礼儀正しく振る舞うとは、相手を思いやる態度、行動を示しているのです。常識的な通常の礼儀とは異なります。

では、どうすることが礼にかなうのか、私たちは考える必要があります。愛するとは、創造的な行為です。私たちは相手に思いやりを示すことによって礼を尽くし、愛することができるのです。


2.あなたは新来会者に礼を尽くし、愛を表現できる。


私たちが教会で礼を尽くす人に、新来会者がいます。教会の礼拝に初めてきた人、あるいは何回か来ている人です。かつて夏休みに他の教会の礼拝に出たことがあります。誰も声をかけてくれませんでした。とても残念な気がしました。新来会者は自分は歓迎されているのだろうか、礼拝はどうしたらいいのかなど、不安やとまどいを持っています。

こういう人々にどう接することが礼を尽くすことなのか、愛を示すことになるのか、具体的に行動することが大切です。それにより、私たちは人を愛することができ、教会が愛の教会に近づきます。金沢元町教会っていい教会だな、また来てみたいな、と思ってもらえます。そのためにはどうしたらよいのか、考えて実行する必要があります。皆さんにも具体的に考え、実践してほしいと思います。そのために私がいくつか具体的な提案をします。

まず、笑顔で挨拶しましょう。礼拝に来られたとき「ようこそ」と歓迎の気持ちを伝えましょう。礼拝が終わったら、自分の名前を言って、「ようこそおいで下さいました」と話しかけましょう。帰る時、「また来てください」と言いましょう。こうして歓迎の気持ちを伝えます。他の人がするから、自分はいいやと消極的になるのはやめましょう。皆さん、一人ひとりが教会の顔です。声かけをする、それは愛することです。

礼拝の時は、配慮の心を持ちましょう。自分の座席にこだわらず、近くに見かけない人がいたら、その隣に座りましょう。「初めてですか」と声をかけてみましょう。

礼拝の中では、新来会者がとまどわないように、配慮しましょう。交読文、讃美歌、聖書を開くのを手伝うことも必要です。献金について簡単に説明することも必要かもしれません。


3.あなたは他の教会員に礼を尽くし愛を表現できる。


教会員同士、笑顔で挨拶しましょう。顔を合わせた時、また帰る時、笑顔で挨拶しましょう。笑顔でいるために夫婦げんかをした場合、教会に来る前に仲直りしておきましょう。

どんな会話をするか心がけましょう。互いの安否を問うたり、受けた恵みの分かち合いをしましょう。私たちの会話が世間話で終わらないようにしましょう。信仰を励まし合ったり支え合ったりする会話となるようにしましょう。必要に応じて祈り合うこともすばらしいことです。分かち合った内容は、他の人に漏らさないことは大切な礼儀です。
教会には、信仰の弱い人もいます。信仰の弱い人を裁かないようにしましょう。広い心で受けとめ、その人のために祈りましょう。
パウロは、教会はキリストの体、私たち一人ひとりは、その部分だと述べています。

「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」(12:23)。

「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(12:24)。

互いの存在を喜ぶ、これが礼を尽くすことであり、愛することです。


4.あなたは神に礼を尽くすことができる。


 礼をもって神様を礼拝しましょう。土曜日は早めに休み、礼拝に備えましょう。あらかじめ、礼拝で取り上げられる聖書箇所に目を通し、思いめぐらして礼拝に備えましょう。福音が語られるよう説教者のために祈ることも大切な礼拝の備えです。礼拝の五分前には席について心を静め、礼拝に備えましょう。

 礼をもって神様を礼拝することはとても大切なことです。神様に対する礼儀が果たせないなら、人に対しても愛をもって礼を尽くすことは難しいでしょう。神に対して礼を尽くすことによって、神への愛を表現しましょう。

 創造主なる神に礼を尽くしましょう。当たり前を恵みとして感謝しましょう。健康で無事に日々を過ごせることは恵みです。食事ができることも恵みです。様々な食材、自然の恵みを感謝してじっくり味わいましょう。家族が与えられていること、友が与えられていることも感謝しましょう。

 エデンの園にいたアダムとエバは、取って食べてよい沢山の木とその実がありました。たった一本だけ食べることを禁じられた木がありました。

 食べることのできる木がたくさんあることを感謝していれば、彼らは禁じられた木の実を食べなかったでしょう。一本の木の実が食べられないことの不満が、罪への動機となりました。沢山の木があることは当たり前ではありません。私たちも沢山の当たり前に囲まれていますが、それらを感謝することが創造主なる神への礼儀です。感謝と賛美を神に捧げて、神に礼を尽くしましょう。

 どのように誰に礼を尽くすか、お話ししました。それをこの「本日のメッセージ」に具体的に書きお話ししました。一つでも二つでも実践してください。それによって、あなたは礼を尽くし、愛する人になるのです。金沢元町教会が愛の教会になるのです。やってみようと思うところに線を引いてください。


祈り

天の父、愛は礼儀正しくい振る舞うことと教えられました。教会で、他の人に対し低下に礼儀正しく振る舞うのか、自ら考え実践します。また礼を尽くし、あなたに感謝し、あなたをたたえることを教えられたことも感謝します。聞くだけでなく、行う者となります。
金沢元町教会が愛し合う人の集いとなるように、あなたに仕え、教会に仕えます。聖霊の導きと助けによって、愛する人として成長させてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。