クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.10.11)
聖書 詩編 16 神を目の前において生きる

 これから、「神と共に歩む老い」と題して説教を何回か行います。本屋へ行くと、「老い」に関するコーナーがあります。老いをどう生きればよいのか、教えてくれる本がずらっと並んでいます。信仰がなくても人々は、懸命に老いを生きています。私たちは信仰を持って、クリスチャンとして老いを生きていきたいと思います。


 人生には、いくつかの時期があります。幼少期、少年少女の時期、青年、壮年、老年。それぞれの年代に応じて、直面する課題、果たすべき責任が異なります。青年期には、自分は将来何をして生きるのか、誰と一緒に生きるのか、人生の土台を築く時期となります。就職、結婚が大切な目標となります。壮年期は、仕事と家庭に対して責任をもって生きることになります。基本的には男性は外で働き、収入を得て、家計を支えます。働く女性も増えました。夫婦で子供を育てます。


 老年期は、仕事は引退し、壮年期に持った責任からも解放されます。子どもたちは独立し、子供とは別々に暮らすようになります。老年期では、結婚していれば夫婦だけの生活、あるいは世話をする親と一緒の生活になります。老年期は時間的に自由が多くなりますが、隠退したあとの生き甲斐がないと生きる張り合いが失われ、時に自分はこの社会から必要とされない人間だ、という思いが湧いて生きる意欲を失います。さらには体の衰えからくる不安も抱えます。病気にならないか、大きな不安です。人生の伴侶が亡くなれば、寂しさ、孤独感が増してきます。


 私たちは信仰を持って、人生を生きていきます。私たちは信仰者として、青年時代、壮年時代、老年時代、それぞれの時代を生きることになります。信仰を持って生きるという点では何も変わりません。人は、これまで生きてきたように、これからも生きていきます。これまで持ってきた信仰でもって老いの時期も生きていきます。ただそれだけのことです。老いの時期だからといって、特別な信仰が必要とされるわけではありません。


 しかし若い日に、また壮年の日に、信仰をどのように育ててきたのか、老いの日に信仰の真価が試されます。そして老いの日にもなお信仰は成長し、信仰に生きる喜びが与えられていきます。信仰は人生という旅路の支えとなる杖です。それが今日のテーマです。


1.神よ守って下さい、と祈る信仰者 

「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを」(1節)。

 ダビデは、「守って下さい」と神に祈っています。ダビデは、サウロという王に、命を狙われ、王の手を逃れ、逃亡生活を続けた人です。「神よ、守って下さい」という祈りは、切実です。敵の手から、罪の誘惑から、病気から、恐れや不安から、守って下さいという祈りが生まれます。


 信仰者といえども「守って下さい」という祈りを必要としない、安全地帯で生きることができるわけではありません。信仰は安全地帯を保証するわけではありません。礼拝を欠かさず守る、献金を献げる、日々聖書を読み、祈る、という敬虔な生活も安全地帯を約束しません。そもそもこの世に安全地帯はありません。老いれば体力は衰え、転んでけがをしたり、病気になったり、老いることの悲しみ、惨めさは私たちを待っているのです。「神よ、守って下さい」との祈りは、私たちにとって大切な祈りとなります。


 ダビデは、次のように告白しています。

「主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」(8節)。

 「私は揺らぐことがありません」。これはダビデの確信です。経験から来る確信であり、将来に対しての確信です。それは喜びの確信です。信仰者はこの確信を持つことができるのです。ダビデにとって神は、避け所です。神はダビデを敵から守る盾であり、嵐の時に、逃れる避難所です。神こそが安全地帯なのです。


 「神よ、あなたこそ、私を守って下さる方です」と明確な信仰の告白をしています。こういう告白をするとは、神への疑いが全くないということなのでしょうか。そうかも知れません。神への全き信頼に生きる人もいるでしょう。しかし、すこしも疑いを持たないということは、私たちにとっては、難しいことです。この告白は疑うことを拒否するという信仰の表明です。神の助けが疑わしく思えるとき、疑うという選択はせず、信じるという選択をするという信仰の表明です。


 神の助けが疑わしく思えるとき、それにもかかわらず、神を信頼するという選択をする、信頼するという立場を取るという信仰の表明です。このようにして、私たちは信仰に生きるのです。このような信仰はどこから生まれてくるのでしょうか。


2.神を自分の前におく信仰という決断 

「わたしは絶えず主に相対しています」(8節)。
「わたしは常に主をわたしの前に置く」(口語訳聖書)。

 ダビデは、神様が自分の前にいると信じることに決めたのです。この句に続いて、「主が私の右におられるので」とあります。そして、神は、私の右にいるとその信仰を表明しています。私には、そういう感覚はないのですが、ある人たちは、神様は「ここにいる」と言って右前方を指します。


 聖書の神は、「私はあなたと共にいる」と約束してくださる神です。この神の言葉が真実であることは、モーセや、ヨシュアの物語が証言をしています。それはダビデ自身も経験していることです。何よりも、イエス様は、インマヌエルとも呼ばれる方です。インマヌエルとは、神我らと共にいますとの意味です。


 神を自分の前に置く、これは信仰の決断です。神が私の前に、私の右におられることを前提として生きることを選び取るのです。神はどこにいるのかわからないけど、何となく私を守ってくれそうな気がするし、守って下さいと祈るというのとは違うのです。神を、自分の前に置いて生きることにするのです。それはやがて身につきます。そして「わたしは揺らぐことがありません」との告白になっていきます。


 時に、神様が遠くにいるように思えることがあります。神様が、どこかに隠れてしまったように思えることがあります。自分がますます困難な状況に陥っていくとき、試練にあって辛いとき、祈っても聞かれないとき、神様が近くにいるとは感じられない時があります。信仰が崩れてしまいそうになるときがあります。私たちの感じ方によって、神様が遠くに行ったり、近くにいたりするわけではありません。私たちがどう感じようが、神は共にいて下さいます。感情に惑わされてはいけないのです。感情に左右されると信仰は揺れます。


 神の約束に立つことが必要です。神の約束に立つとき、次の告白が生まれるのです。「主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」(8節)。さらに次の告白も導かれます。

「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(9節)。

 神様を自分の前に置く、その時、喜びも、平安も、恵みとして与えられるのです。神が遠くに思えても、疑いの嵐が吹きすさぶときも、それにもかかわらず、喜び、平安が訪れるのです。この「にもかかわらず」は、信仰の要となる言葉です。


 青年時代、壮年時代は、自分の力に頼りがちです。しかし老年期には、自分の力は衰えていきます。老年期こそ、信仰に立ち、神に対する信頼を確かなものにできるときなのです。それは神を自分の前に置くという単純な決断と神の恵みから生まれる確信です。


 どうして、神を自分の前に置くということができるのでしょうか。それは単なる思い込みではないか、と言う人もいるでしょう。


3.神こそ私が受け継いだ財産、宝 

「主はわたしに与えられた分」(5節)。

 これはどういう意味なのでしょうか。これは、神こそ、私が譲り受けた財産という意味です。

「 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました」(6節)。

 計り縄というのは、土地を測量するためのものです。イスラエルの民は、エジプトを脱出して約束の地に入りました。神はイスラエルの12部族ごとに彼らに住む土地を与えました。神は測り縄を用いて、土地を分けたという表現が聖書にあります。6節は、割り当てられて受け取る土地のことを「嗣業」と言います。昔は土地が財産ですから、相続財産のことを嗣業と呼びます。ここでは、神こそ嗣業、相続財産と呼んでいます。

イスラエルでは、父から子へ、神が伝えられ、信仰が伝えられました。神こそ、私が受け継いだ大切な財産です、とダビデは告白しているのです。私たちも、信仰の継承という言葉を使います。信仰を子どもたちに、次の世代の人たちに受け継がせたいのです。信仰の継承を願う私たちは、神こそ、最高の財産と告白しているのです。

 この神を、何よりも大切な財産として受けとめるのです。神を持つ、神を信じる、それが一番素晴らしいことなのです。ダビデはそういう告白をしているのです。

「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(7節)。
「命の道を教えてくださいます」(11節)。

 神は、私の思いを励まし、私を諭して下さる方です。私たちは自分であれこれ考えて悩み思い煩うものです。しかし、神は私たちを励まし諭して下さる方なのです。この神に教えられるとき、私たちは確かな道を歩くことができるというのです。私たちはあれこれ考えて悩み思い煩います。不安を感じ、焦りを感じ、失望し、嘆き、感情に左右されます。本当に確かなもの、それは神です。神の励ましであり、神の諭しです。


 神を信じるとは、励まし、諭してくれる神を持つということです。大切な、受け継いだ財産として神を持つということです。このような神をもって、生きる、それが信仰です。神こそ一番大切な財産であり、その神に生かされる、これが私たちの信仰です。この信仰が、私たちを生かします。この信仰が、人生という旅路を支えとなる杖なのです。その基本は、神を目の前に置くことです。


祈り


 天の父、信仰こそ人生という旅路を支える杖です。老人は転ばぬように杖を持ちますが、信仰という杖は、若い時も壮年の人生の盛りの時も必要です。言うまでもなく、老年期にも必要です。
 若い日より信仰に生き、信仰の杖を太く、強く、決して折れることのない杖に育てることができますように。
 何よりも神様が、私たちに与えられた最高の財産であり、宝であると告白できますように。あなたと共に歩むことを喜びとすることができますように。イエス・キリストのみ名により祈ります。