クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.10.10)
聖書 ルカ 1:46〜56 わたしの魂は主を崇め
聖書には、「いつも喜んでいなさい」という教えがあります。普通、それは無理だと人は考えます。悩みがあり、思うようにならないことがあり、喜べるはずがないと言うのです。「いつも喜んでいなさい」というのは、いつもいつも喜べる出来事があるから喜びなさいと言うことではないように思います。むしろ、いつも喜んでいる心の有り様を述べているのではないでしょうか。以前の賛美歌520番が、この心を歌っているように思います。

「しずけき河のきしべを過ぎゆくときにも、憂き悩みの荒波をわたりゆく折にも。こころ安し、神によりてやすし」。


今日の聖書には、喜びに満たされているマリアが登場します。47節で

「わたしの魂は主を崇め」

とマリアは述べています。この賛歌を、マリアはいつ歌ったのか、と考えます。非常に整った賛歌、よく考えられた内容を持っているので、45節のエリサベトの言葉を聞いて、すぐに歌ったとは思えません。マリアが天使の語ったことを思い巡らし、神を思い、その結果できた賛歌と思います。


 「崇めます」とあります。ギリシャ語では、メガリューノーという言葉ですが、メガという言葉で始まります。メガというのは大きいという意味です。物をはかるとき、メガというと百万倍を意味します。原子爆弾の大きさを表すとき、メガトン級の爆弾という表現が使われました。火薬一トンの百万倍の威力ということです。
神を崇めるとは、神を大きくするという意味になります。それでは意味が通じません。日本語に訳すと「崇める」「栄光をたたえる」「賛美する」となります。私たちキリストを信じる者は、祈りの中で、「あなたをたたえます」と言って神をたたえます。賛美歌を歌って神を賛美します。礼拝の場に集って私たちは神を崇めます。いつもしている行為なのですが、そもそも「崇める」とはどういうことなのでしょうか。マリアは、「私は主を崇めます」と語ります。それは、神に向けての言葉です。マリアは、神を崇める心を持っているのです。神を崇める心があるから、「私は主を崇めます」と告白することができています。


 神を崇める心とはどんな心なのでしょうか。皆さんは、マリアのように、「私は神を崇めています」と言えますか。言えるとしたら、どんな思いが心にあるので、神を崇めます、と言うのでしょうか。


 私たちが神に対してとる行動がいくつかあります。たとえば祈る。これは具体的ですね。感謝する。神の教えに従う。これらも具体的ですね。神の御心を知ろうとする。神を愛する。神に信頼する。神に対して私たちがとる行動がいろいろありますが、これらの行動をすべて実行する、それが崇めるということではないか、と考えます。つまり、私たちが神に対してなすべきことをする、それが神を崇めるということですね。神に対してなすべきことをしないのは、神をないがしろにすること、神を軽んじることにつながります。それの反対が神を崇めることになります。


 私たちが神を信じ、神と関わって生きていくとき、神を崇めることは大切なこととなります。神を神として重んじること、それが神を崇めることですね。人間同士の場合でも、相手に対してふさわしい行動があります。結婚式に読まれる聖書では、夫は妻を自分の体を愛するように愛しなさいと教えられ、妻に対しては、キリストに仕えるように夫に仕えなさいと教えられます。相手に対してふさわしい行動をすること、それは相手を愛することです。ですから神を崇めることは神を愛することになります。


 マリアには、神を崇める理由があります。48節によれば、神が彼女に目を留めたのです。自分のような身分の低い者に神は目を留めてくださった、そして49節によれば、神が彼女に偉大なことをされたからです。


 神との出会いがあるからこそ、神を崇めることができます。マリアは、イスラエル人として、神の民の一員で、神を崇める心を持っていたと思いますが、神が具体的に彼女を顧み、神の子を身ごもるという神の働きを受けて、マリアは神を崇めました。


 私たちは、罪を赦してくださる神との出会いを経験します。イエス様が十字架で処刑されて死にました。その死には意味があります。神の前に罪を犯し、神の怒りを受けるべき私。その私の代わりに、イエス様が神の怒りを受けてくださいました。自分は罪を悔い改め、神に赦しを求めるときに、神はイエス様の故に赦してくださいます。赦しにおいて、私たちは神に出会います。キリストの十字架において、神はすべての人に出会ってくださいます。


 私たちはいろんな場面で神との出会いを経験します。出会いといっても、顔と顔を合わすような出会いではありません。神との出会いは心で受けとめます。ある人は祈りが聞かれたとき、ある人は神の導きを経験したとき、それを神との出会いと受けとめることができるでしょう。神はいつも共にいてくださるのですが、それは信ずべきことです。時に神は、私はいるよ、と私たちに語られます。あるいは聖書を読んでいて、その内容を思い巡らすとき、これはどう考えても、人間が書いたものではない、神が語ったのでなければ、このような内容は存在しないと実感するときもあります。私たちもマリアと同じように、「私は主を崇めます」と告白して生きていきます。それがクリスチャンです。


 ここで一つ覚えておいてほしいことがあります。それは、私たちは、完全に神を崇めることはできないということです。私たちがすることはいつも不十分で、不足があるということです。私たちは時に錯覚をいたします。クリスチャンになり、努力をすれば、十分に神を崇めることができると考えるのです。そして生活の中で、神に対してすべきことが十分にできないと、つまり自分はきちんと神を崇めることができないと考えて、信仰者としての自分を卑下するのです。あるいは自分を責めるのです。あるいは、神に対して、なすべき事を全部行う、神を崇めるなんて無理だと自己防衛をします。神の教えに対して、無理だと自己防衛する人は、なぜ自己防衛するのでしょうか。そしていつのまにか、信仰者として成長することを考えなくなるのです。


 私たちは、いつでも不十分にしか神を崇めることはできません。それは恥ずべきことではありません。責められることでもありません。大事なことは、精一杯崇める努力をすることです。少しずつ、以前よりも神を崇めることができるようになることを喜ぶのです。そのようにして、神を崇める生活をしていくとき、「私は神を喜びたたえます」との告白をマリアと共にできるのです。そこに信仰者の、誰からも奪われない喜びがあります。成長の喜びは、信仰者が生きている限り与えられる喜びです。


 48節でマリアは、

「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう」

とあります。「いつの世の人も」と言うことは、どの時代に生きる人も皆、つまりすべての人を意味します。今から後、マリアのことを知る人は皆、マリアを幸いな人だと言うでしょう、とマリアは述べています。そこには、私も、皆さんも含まれています。私も、皆さんも、マリアのことを知っています。マリアが天使のお告げを受け、お言葉通りこの身になりますようにと語ったこの聖書を読んだことがあります。クリスマスになれば、この場面を劇にして演じたり、あるいはその場面を何度も見てきました。皆さんは、「マリアって幸いな人ね」って言ったことがありますか。


 「いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう」とマリアは述べています。マリアの予測は外れたのでしょうか。当たっているのでしょうか。この聖書の箇所を読んで、そう思いました。私は自分の口から、「マリアは幸いな人だ」と他の人に語ったことがないことを正直に告白します。この箇所を何度も読んだことがあるのに、マリアに対して「幸いな人と」言うことを考えなかった不明を恥じました。


 では、なぜ告白できなかったのでしょうか。その理由は、マリアに起きた出来事が、自分には関係のない出来事だと思っているからです。マリアには、救い主の母となるという素晴らしい出来事が起きました。マリアにとっては幸いな出来事だったでしょう。でも、私にとっては、それは他人の出来事でした。だから、「マリアは幸いだね」と言えないのです。もし誰かに、「マリアって幸いだよね」と言ったとします。その人から、どうしてそう思うの、と突っ込まれたら多分、返事に困ると思います。つまり、マリアの思いに共感していないんです。だから、なぜ、マリアはそう言ったのか、考えざるを得ません。


 マリアはどうして自分を幸いだと考えたのでしょうか。身分の低い自分を神が顧み、救い主、神の子を産むという思いがけない恵みを神から受けたからでしょうか。神の子の母となったからでしょうか。


 確かに神の子の母となる経験は誰もしたことがない経験です。人類の歴史が続く限り、彼女の名は残るのです。ルカ福音書11章で、イエス様に向かってある女性が言いました。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ11:27)。この女性は、イエス様を身ごもったマリアのことをなんと幸いなことでしょう、と言ったのです。マリアの言葉の通りです。しかしイエス様は、言いました。「むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」。


 ですから、神の子を身ごもったこと自体が幸いだとイエスは言っていないのです。神の子を身ごもるという経験はマリアだけの経験であり、私たちが共感するような経験ではないのです。ではマリアのどこに共感するのでしょうか。


 48節、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。これです、私たちが共感するのは。「はしため」という言葉は、しもべという言葉です。主のしもべである私、しかも取るに足りない自分、そのような者を神が目に留めてくださった、ここに、私たちは共感することができます。


 そして「私は幸いです」という言葉が生まれてくるのは、マリアの「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」と述べた言葉です。ここにも、私たちが共感できる点があります。


 私たちが正直に自分の心を見るなら、けがれていることがわかります。醜い心のあることがわかります。そして自分ではどうしようもないこともわかります。だから、隠すしかないのです。自分は醜い心などないかのようにごまかして生きるしかないのです。そういう人生は、しかし、喜びがないのです。むなしいのです。人との関係がうまくいきません。正直な自分をさらしたら、人は自分を避けるかもしれません。人は自分から逃げていくかもしれません。恐れから自分の心を隠します。
しかし神は、イエス・キリストを信じる私を赦し、私を神の子としてくださいます。それだけはなく、私の心を新しくしてくださいます。人の心が変えられるのです。神によって造りかえられるのです。


 希望のなかった心に希望が芽生え、恐れに囚われていた心に平安が宿ります。行き詰まって途方に暮れている心に、一筋の光が見えてきます。自分のことしか考えられなかったのに、人のことを思いやることができるようになります。こんな神の救いは、私に対する、神の偉大は働きに他なりません。


 このマリアの賛歌に似た歌があります。それはハンナの歌です。これは旧約聖書サムエル記上2章に出てきます。エルカナという男性がいました。彼には二人の妻がありました。一人はハンナ、一人はペニナ。ペニナには子供がいましたが、ハンナは子供が授かりません。夫がハンナを愛していることを知っているペニナは、折あるごとにハンナのことを苦しめます。「神は、あなたに子を授けない。あなたは神の祝福を受けていない。何か問題があるんじゃないの。祝福を受けられない女」。何年もの間、不妊の女と呼ばれ苦しんだのです。しかし苦しみの中から祈ったとき、神は子を授けてくださいました。その時、ハンナは歌うのです。

「主にあって私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる。聖なる方は主のみ。・・・勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」。

 取るに足りない自分を神は顧み、神は私を救ってくださった、神に感謝し喜ぶ心は、マリアに共感できるのです。マリアのことを思うとき、私たちは言葉を与えられるのです。神から与えられた恵みを表現するときに、「マリアは幸いな人だ」と言うことができるのです。マリアと同じように、神は私に目を留め、大いなることをしてくださったと語ることができるのです。


 神は十字架で死んだイエス様を復活させました。イエス様を死の中から復活させた神の力、それが私たちにも働き、私たちは生まれ変わるのです。この神の力をあなた方が知るようにとパウロは祈っています。この神の力にあずかる者は、マリアと共に、幸いだねと喜び合うことができ、私は救い主である神を喜びたたえますと告白ができるのです。幸いなことです。祈ります。