クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ4:31〜37
メッセージ この言葉はいったい何?


現代は、権威が失墜した時代と言われることがあります。学校の教室で先生が「静かにしなさい」と言っておしゃべりをやめさせようとしても、生徒はおしゃべりを続けます。親の言葉をふふんと言って、聞き流す子供がいます。親に口答えをする子供。今日の政治家の国家の指導者としての権威のなさの目に余る現実があります。
また権威を振りかざす人がいて、それによって傷つく人たちもいます。そして権威を嫌います。権威を持つ人への反発を無意識に持っている人もいます。
権威はあった方が良いのでしょうか、ない方がよいのでしょうか。聖書には、すべての権威は神によって立てられているとあります。権威がないがしろにされる時代は、不幸な時代だと私は思っています。皆さんはどう思われますか。
聖書は、神は私どもに語られる、と教えています。神の言葉は私どもにとって権威ある言葉であり、この言葉によって生きることを教えています。
人はふさわしい権威、つまり神の言葉によって生きるべきなのでしょうか。それとも権威なしに自由に生きるべきなのか。どう思われますか。

  • 自分の考え、判断こそ、権威あるものなのでしょうか。
  • 聖書が語ることに権威があるのでしょうか。
  • あなたは何を権威として生きているのでしょうか。


今日の聖書で、主イエスは、カファルナウムの町に行きました。ガリラヤ湖の湖畔にある町です。そして安息日には、人々を教えておられました。そして人々は、その教えに非常に驚いたのです。人々は、主イエスの語る言葉に権威を感じたからです。権威を感じるというのは、どんな感覚で、どんな思いを抱くことなのでしょうか。皆さんは、礼拝説教を聞いているときに、語られる言葉に権威を感じたという経験をなさったことがあるのでしょうか。あるなら、その時、どんな感覚、どんな思いを抱いたのか、思い出せるでしょうか。


人々は主イエスの語ることが理解できたし、納得できたでしょう。おそらく、新しいことを聞いたような気がして、うれしく思ったのではないでしょうか。これは、権威を感じるということなのでしょうか。

何かの講演会に行き、講演の中で教えられたことを実行したいという思いになることがないでしょうか。私どもがそういう思いに導かれたとするなら、その講演には、聞いた人を動かす力があったということになります。その時、その講演では、権威ある言葉が語られたと言ってもよいのではないでしょうか。 従ってみたいという気持ちを起こさせたのですから。

よい話というのは、必ずしも、人々を動かす力があるとは限りません。聞いた人を満足させ、喜びを与えるかも知れません。どんなにいい話でも、人を動かす力がなければ、権威を感じるということはないのではないでしょうか。


説教を聞いて、何らかの行動を促されることがあるとしましょう。説教を聞いて、こうしたいと思ったという感想を持ちます。私どもは、聞いた言葉に権威があったというように意識することは少ないと思います。行動を促される感想を抱いたとき、その説教の言葉には権威があったといってもよいのではないでしょうか。行動を促す力を持っていたということは、権威があったということです。


プロ野球にしても、Jリーグのサッカーにしても、一つのチームには監督がいます。監督というのは、権威を持っている人ということができます。選手は、監督の指示に従ってプレーをします。選手が監督の言葉に従うのは、監督には権威があると認められるからです。多くの場合、監督には経験と技術があり、選手は監督の言葉には従います。監督がこうしなさいと言えば、それに応答して、選手は従います。試合に勝利するためです。


では主イエスの場合はどうだったのでしょうか。主イエスの言葉に権威を感じた人々はどのような応答をしたのでしょうか。今日の聖書の箇所には書かれていませんが、たとえば、5章1節には「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」とあります。主イエスの言葉をもっと聞きたい、そういう反応、応答を人々は示したといってよいと思います。6章18節でも、おびただしい群衆が、イエスの教えを聞くために来た、と書かれています。イエスの教えを聞いて、主イエスの語る言葉に権威を感じた人々は、主イエスの話を、もっと聞きたい、もっと聞きたい、そういう応答を示したと言えます。


会堂にいた人々が、主イエスの言葉に驚き、権威を感じていると、「汚れた悪霊に取り憑かれた男がいて、大声で叫んだ」とあります(33節)。そして「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」というのです。

変だと思いませんか。奇妙だと思いませんか。

大声を出して、自分に注意を向けさせ、そして「かまわないでくれ」というのです。大声を上げなければ、よいのではないでしょうか。そうすれば気づかれずにすむし、主イエスがかまうこともないと思うのですが。


8章26節以下でも、似たことが書かれています。主イエスが舟でガリラヤ湖の向こうのゲラサ人が住んでいる地方に行きました。すると悪霊に憑かれた男がやってきて、主イエスを見るとひれ伏して大声で言います。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」。主イエスのところへ来なければいいのに。なぜわざわざ主イエスのもとに来て、「かまわないでくれ」と言うのでしょうか。


汚れた霊には、恐れがあったのではないかと推測します。今日の聖書では、「かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか」と汚れた霊は言っています。主イエスに滅ぼされる危険があったのです。主イエスに気づかれる前に、自分から大声を上げて、「かまわないでくれ」と嘆願したわけです。滅ぼされたくない一心で悪霊は主イエスに命乞いをしたわけです。


主イエスと悪霊は敵対関係にあります。神は人を造り、人を愛します。主イエスは神の側にいます。悪霊は、主イエスが誰か知っています。「神の聖者だ」と告白しています。悪霊は、神に敵対する闇に属しています。闇の力を持ち、人間を苦しめるのです。


暗闇というのは人間を不安にさせます。闇の力は人を苦しませ、その人生をだめにし、滅ぼそうとします。幼い女の子にいたずらしようとし、騒がれて殺してしまうという痛ましい事件が起きました。闇の力に支配されて引き起こされたとしたか言いようがないように思えます。小さな女の子だって、いやなことをされれば叫び泣くことぐらい想像できるでしょう。理性を失った行動、悪魔に魂を乗っ取られた行動としか思えません。闇の力に支配された行動だと思わされます。


主イエスは光です。いったん光が射せば、闇は闇ではなくなります。光は、闇を破るのです。主イエスは、闇の力によって苦しんでいる人を救う光なのです。光は闇を闇でなくします。光は闇に勝利します。主イエスは権威ある言葉を語りました。主イエスの言葉は闇に勝利する言葉です。思い煩い、ねたみ、恨み、劣等感、人を裁く思い、行き詰まり、これらは闇の力がもたらす苦しみです。御言葉の光がこれらの思いで苦しむ人を自由にするのです。解放するのです。
主イエス

「黙れ、この人から出て行け」

と叱ると、汚れた悪霊は出て行ったとあります。悪霊による苦しみから、主イエスは救われたのです。そしてこれを見た人々は驚きました。

「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」(36節)。

 「この言葉はいったい何だろう」。


 「この言葉はいったい何だろう」。「この言葉」は何なのでしょうか。これは主イエスの口から出たから、主イエスの言葉です。それは答えになりません。命じれば悪霊が出て行く言葉、それは何なのでしょうか。・・・・ それは「神の言葉」です。5章の1節には、はっきりと書かれています。「神の言葉を聞こうとして、群衆がイエスの周りに押し寄せてきた」。主イエスの語った言葉を権威ある言葉と感じた人々が、さらにもっと聞きたい、もっと聞きたいと思ったもの、それは神の言葉なのです。


人々は主イエスの教えに驚き、悪霊は主イエスの命令によって取りついた人から出て行きました。この二つのことは、主イエスの語る言葉が権威ある神の言葉、力ある神の言葉であることを示しているのではないでしょうか。


ですから、神を信じるとは、

  • 神が人間に語られる神であることを信じること、
  • 神の言葉というものがあることを信じること、

と考えてよいのではないでしょうか。


先週、伯母の葬儀に参列しました。いとこの多くが来ていました。みんな年をとっていましたが、面影を残し、懐かしかったです。葬儀は浄土真宗によって行われました。通夜の時、僧侶が最後に法話を話されました。一言で言えば、感謝して生きることが大切だという話でした。遠くから駆けつけた者が多かったので、お通夜のあと、共に食事をしました。その時、いとこたちとの会話の中で、「宗教は皆同じだよね」と私に言う人がいたので、私は「違うよ」と返事をしました。「感謝を大切に考えることは共通だけど、違うよ」と言いました。それ以上のことは言いませんでしたが、私どもは、神が語られるということ、神の言葉というものがある、ということを信じます。神の言葉を聞くということをどの宗教も教えるのでしょうか。私どもの信仰は、他の宗教と決して同じではありません。


今日の聖書は、主イエスの言葉には権威があるということを教えています。権威ある神の言葉というものがあり、私どもはそれを聞くことができる、そこに、私どもの信仰の特徴があると教えています。


スポーツチームの監督の言葉は、選手に対して権威のある言葉です。監督は何のために選手に語るのでしょうか。それは試合に勝つためです。優勝するためです。監督を立てるのは、勝つためです。そのために監督は選手に指示をします。選手は従います。権威ある言葉は、それは目的を持って語られるのです。


親は子供を愛し、育てるために、教師は生徒を愛し、生徒を成長させるために、語ります。親や教師の語る言葉は、権威ある言葉として語られ、聞く者はそれを受け入れ、聞き従います。そのようにして、子供や生徒は成長します。

では、神の言葉は何のために語られるのでしょうか。皆さんは、

  • 何のために礼拝に来て、
  • 何のために説教の言葉を聞くのでしょうか。


それは、神が人を救い、人を生かす神だからではないでしょうか。人を救い、人を生かす言葉を聞きに来ているのではないでしょうか。神はなぜ、語られるのでしょうか。人を生かすために、真理の言葉を、命の言葉を、神は語られるのです。


主イエス安息日に会堂で聖書を読み、教えられます。金沢元町教会でも日曜日、礼拝が行われます。その礼拝の中で、聖書が読まれ、読まれた聖書に基づき、説教者によって教えがなされます。似ていますね。同じといってもよいかもしれません。


違いが何かあるでしょうか。「全然違うよ、前に立つ人が全く違うよ」。確かに、カファルナウムの会堂では、主イエスが立ち、話されますが、ここでは、牧師が立ち、語ります。語る人は違いますが、そこで行われていることに、違いがあるのでしょうか。主イエスは権威ある神の言葉を語りました。では、牧師は何を語るのでしょうか。説教者の語る言葉に皆さんは権威を感じていますか。感じていないという返事が多いかもしれません。


考えてみてください。神さまは、ある人を牧師となるように呼び出すのです。主イエスガリラヤ湖で漁師をしていた人たちを「私についてきなさい」と呼び出しましたが、神は、人を牧師となるように召し、牧師を通して、説教を通して、神の言葉を語ろうとされるのです。牧師は神によって召し出され、説教を通して、神の言葉を語ることを命じられているのです。そう信じて説教の務めを果たしています。


主イエスは神です。だから、主の言葉を聞いて人々がそこに権威を感じたのは自然です。しかし、ただの人間である牧師が語る言葉には権威があるのかどうか、です。神は、説教者を通して語ろうとされます。しかし説教者の言葉に権威を感じるのでしょうか。その語っている言葉に権威を感じないのなら、聞いても聞かなくてもどちらでもよいのでしょうか。私どもが説教として聞く言葉に権威を感じるのはどういう時なのでしょうか。


結婚している夫婦がいるとします。たとえば妻が夫に、私に対するあなたの愛が感じられないわと言って、いつも、いつも、愛を感じるようなことを求めたらどうなるでしょうか。夫は言うでしょう。「僕が君を愛していることを信じないの」。いつも、そしていつも感じないなら、当てにならないというのは、傲慢なのではないでしょうか。相手の振る舞いの中に愛を見て取る気持ちがあってもよいのではないでしょうか。


大事なことは、神は人を通して語られることを「信じる」ことです。そして、説教者が神の言葉を語ることができるように祈ることです。そもそも神の言葉を語るなど、人間にはできないことです。礼拝の説教を通して神の言葉を聞くことを期待するなら、自分でもあらかじめ予告された聖書の箇所を何回か読み、神さまは何を語ろうとされているのか、思い巡らす準備が自分のためには必要でしょう。そして、神さまに用いられるが故に、敢えて不可能なことに挑戦する説教者のために祈ることも必要でしょう。


説教者は説教者で、自分の語る言葉が神の言葉とされるために、謙遜に精一杯の準備を行いますし、自分の言葉が神の言葉として聞かれるために、祈ります。何よりも神の言葉によって生きる努力をします。説教する者も、説教を聞く者も、共に謙遜に、神の言葉が語られるという「出来事」のために祈るのです。そのような祈りの中で、語られる言葉が権威ある言葉として聞かれるようになるのです。


パウロはテサロニケの教会に語っています。「私たちはたえず神に感謝しています。なぜなら、私たちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。「絶えず感謝しています」とあります。何を? 人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたことです。


教会は、礼拝を通して、この世に向けて、神の言葉を語ります。説教者だけが語るのではありません。この世に向けて神の言葉を語るという教会の業に、私どもは仕えているとのです。

私どもは真の権威のもとに生きようとします。神の語られる言葉、私どもに語りかける神によって生きようとするのです。そこに

  • 神に救われ、神に生かされる道が、
  • 神に祝福される道があるのです。
  • 闇の力による苦しみから自由にされる道があるのです。

祈ります。

祈り
天の父、あなたを崇めます。
あなたが私たちに語りかける神様であることを信じます。
カファルナウムでは、主イエスを通してあなたは語られました。
今日では、あなたがそうするようにと召し出した牧師を通して、説教者を通して
あなたは語られます。
あなたの言葉には権威があります。この権威のもとに身を寄せ、
あなたの言葉によって生きることが、人間らしいことを教えてください。
あなたの権威に逆らい、自分の考えに従ってあなたに背いたアダムの例に
倣うことがありませんように。
私たちに謙遜な心を与え
礼拝の説教のために祈るものとしてください。
神の言葉があるということを、この世に向かって証しするものとならせてください。
あなたの言葉の恵みを語る者とさせてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。