クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 葬儀が終わりました。日曜の夜前夜式、月曜日に葬儀。年を取ってきた者には葬儀はきついです。時間的、精神的、肉体的にきついものがあります。特に葬儀が週末にかかると日曜の説教の準備もあります。集中力が必要とされます。でも私は、感謝をもって葬儀の務めを果たしています。二つの理由があります。
 一つ、葬儀においてなす説教、それは故人に対して私がしてあげられる最後の務めであるということです。日曜毎になす説教は、神様への献げものと考えていますが、前夜式、葬儀の説教は、故人への献げ物でもあると思っています。その人の人生、信仰の歩みを思いながら聖書テキストを選び、説教を作成します。どんな聖書の言葉がこの人を生かしたのか、その言葉を紹介したいとの思いがあります。故人に現れた神の導き、恵みを紹介したいと考えています。
 第二の理由は、神の国を待ち望む思いを自分自身強めることです。自分を励ますために説教を作っているという面があります。聖書を思いめぐらしながら、神の国に対する希望を強める機会となります。自分が与えられた確信を伝えることが出来る、うれしいことです。
 言われてみれば当たり前のことかも知れませんが、神さまは、私たちを神の国に招いておられます。神さまが招いておられる以上、神の国はすばらしいものに違いありません。そのことを今回は思いました。望みをもって喜びをもって神の国へ旅立つ死を迎えたい、との希望を強めたいとの思いが表に出てくるのが、葬儀の説教の準備をしているときです。


 今回の葬儀の説教です。故人の紹介の部分は割愛しました。
 故人は、私と同じ、1947年(昭和22年)生まれです。亡くなる前の10年間は寝たきりの生活をされていました。
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聖書 ヨハネ黙示録 21:1〜4
説教 神の国を待ち望む
2015/3/23
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→人生には時々試練と呼ばれる出来事が起きます。
塾の経営が困難になり、どうしたらいいのか、困ってしまう。
これは試練です。
病気になる、これも試練です。
脳梗塞は回復したものの仕事が出来なくなり、
塾をどうしたら良いのか、
これも試練です。
試練が続くと人は生きる気力を失うことがあります。
試練をどう受けとめるかは、大きな課題です。


イエス・キリストは放蕩息子の物語と呼ばれるたとえをお話になりました。
ある裕福な人がいました。
農業を営んでおり、沢山の人を雇っていました。
広い土地を持っていたのです。
彼に二人の息子がいました。
下の息子はある日、父親に
「私が受け継ぐべき財産をください」と言います。
そして父から財産を譲り受けるとそれをすべてお金に換え、
家を出て遠い町に行きます。
お金はたっぷりあるし、
自分に対してうるさく命令する人もいないし、
自由に生きることができるし、
これからの自分の人生がハッピーになると思っていたに違いありません。
しかし、彼は食べたり飲んだり、遊んだりの毎日を送り、
お金を使い果たしました。
生活が行き詰まります。
豚を飼う仕事を手に入れます。
はえさを食べることが出来ますが、
自分は飢えています。
そこで彼はふと気づくのです。
父のもとでは多くの雇い人でさえ十分に食事をしていました。
そこで彼は父のもとに帰ることを決断します。
しかし財産をもらい、それを使い果たしているわけですから、
息子です、と言えません。
雇い人の一人にしてくださいと言うことを決めました。
帰ってきた息子を見て父はとても喜び、
宴会を開きます。
するとまじめに働いていた兄の息子が怒ります。
自分はまじめに働いている。
自分が友だちと楽しむために父は、
子ヤギをくれることはなかった。
それなのに、あのどうしようもない息子が帰ってきたら、子牛を屠って
料理に出す、不公平だと怒ります。
しかし父は言うのです。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。


→この父は、神さまを指しています。
息子の行き詰まり、これは試練です。
試練、それは神さまのもとに立ち帰れという警告と考えることが出来ます。
多くの人は神から離れて生きていますが、
試練は、神さまのもとに戻るチャンスであり、
神さまのもとに帰れ、との警告・合図でもあると聖書は教えます。


→Aさんは、苦労の中で、神さまを求めました。
奥様がクリスチャンであった関係で教会に行かれ、
信仰を持たれました。
神さまに祈り、塾経営の導きを神さまに求めたことと思います。
しかし、脳梗塞を患い、試練がさらに重なりました。
二度目の脳梗塞の後は、言葉も不自由になり、
自分の思いを表現することが困難になりました。
どんな気持ちで寝たきりの生活を続けてこられたのか、
私たちは聞くことができませんでした。


→神さまを信じているのに、
なぜこのような試練が重なるのか、
簡単には解けない疑問です。
試練に遭った信仰者が取り組む問題です。
Aさんがどんな思いで試練を受け入れたのか、
それを聞くことはできませんでした。
そこで私は思います。
<捨て石>という言葉があります。
囲碁でよく使われる言葉です。
より以上の利益を得るために作戦としてわざと相手に取らせる石。
土木工事の際,水底に基礎を作ったり,水勢を弱くしたりするために,水中に投げ入れる石。
そこから 「将来の捨て石になる覚悟だ」 というような言葉が生まれます。


イエス・キリストは救い主ですが、十字架にかかって死にました。
犯罪人として処刑されて死にました。
その死は、犯罪人としての死ではなく、
人々を罪から救うための死であったと聖書は告げます。
イエス・キリストは御自分のいのちを犠牲にして
多くの人々を救う犠牲となりました。
ある意味、捨て石です。
聖書にこんな言葉があります。
「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」。


→家を建てる者たちが、これはいらないと言って捨てた石、
それが実は土台の石になったというのです。
イエス・キリストの犠牲の死、それは多くの人たちが
救われるための死、
多くの人たちの人生の土台となる死であったというのです。
人は己の人生の充実のために生きるでしょう。
しかし、人の役に立つ人生もあります。
イエス・キリストの十字架の死は、
多くの人の人生が救われるための死であり、
多くの人の救われて生きる人生の土台となるためのものでした。


→Aさんの人生はある意味で<捨て石>、
特にご家族に語りかけるものがある人生なのではないでしょうか。
金沢に来られて奥様が金沢元町教会に連なりました。
そして信仰についての学びをされて、神さまに信頼して、
歩んでこられました。
ご苦労が多い中、神さまに支えられてきました。
苦労があるからこそ、支えてくださる神様がおられることが分かりました。
苦労の多い人生でも、神さまが支えてくださる、
支えてくださる神がおられることを知ることは素晴らしいことだよ、
とAさんの人生は語りかけているのではないでしょうか。

→先月、金沢元町教会の女性の教会員が亡くなりました。
彼女は三年前、夫を亡くしました。
夫婦共にクリスチャンでした。
夫を亡くした後、彼女は嘆き悲しみました。
これほどまでに人は嘆き悲しむのか、と思いました。
何通も手紙を戴きました。
同返事を書いていいか、正直戸惑いました。
その時私は、宗教改革者ルターのことを書いた本を読んでいました。
ルターは、子供をなくした悲しみを経験しています。
そのルターが、子供を亡くして悲しんでいる両親に手紙を書いたのです。


→「あなたのご子息が世を去るという思いもかけない事態に、
あなたがたに手紙を差し上げて何とかして強め、励ましたいと思っています。
しかし息子を亡くした父親、母親に向かって
何の悲しみもないでしょう、
何もなかったのです、と言えるとは
私には思えません。
亡くなった方を思って光が失せたという思いで
悲しんでいらっしゃると思います。
どうか泣きたいだけ悲しみ、泣いてください。
しかし、そのようにして悲しみ、泣いた後で、
ふたたび神を見上げて、神からの慰めを受け取ってください。
ご子息もキリストにあって眠るという、
安らかな終わりを迎えたのですから。
そのことを神に感謝する心になってください。
キリストのもとで
ご子息が永遠の休みに入っておられるということを疑わないでください」。


→聖書は、人の人生は死をもって終わるものではないと教えています。
この世の人生はたかだか80年、長くても100年です。
死んだ後、人はどこで生きるかです。
死んだら終わりではありません。
人はどこで永遠を過ごすか、それが大切なんです。
今日読みましたヨハネ黙示録にこう書かれていました。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。
最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。
最初の天と最初の地、これは私たちが生きているこの世界のことです。
この世界が去って行き、新しい天と地が到来するというのです。
新しい世界、それを聖書は神の国と呼びます。


神の国がどのようなものかを見てきた人はいません。
見た人はいませんが、
神さまからインスピレーションを与えられた人が、
神の国がどのようなものか、書き残しています。
ヨハネ黙示録に書かれています。
この黙示録にはこうあります。
「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、
その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである」。


→私たちはこの世に生まれました。
この世には、涙、悲しみ、嘆き、労苦がつきものです。
この世において恵まれた人は、嘆きや労苦が少ないかも知れません。
しかし人は他人がうかがい知ることのできない悲しみ、嘆きを持っているかも知れません。
神の国のすばらしさを描くとき、この世界にある悲しみはない、嘆きも労苦もない、死もない、と
現実の世界の一面を否定する描き方をします。
それによって神の国のすばらしさを描きます。
この世での苦労や悲しみを持つ人は、神の国への強い憧れを抱くことが出来ます。
私はこれは幸いなことだと思います。


→さらに私たちが神さまを信じるようになるきっかけに試練があります。
この世では、私たちは神さまを見ること、神さまの聞いたり、神さまに触ったりすることは出来ません。
信仰には、疑いが湧いてくることもあります。
でも神さまは、私たちを信仰へと招きます。
この世の生活の中で、苦しみや悩みの中で、神さまの導きを体験し、
神と共にあることの幸い、喜び、嬉しさを私たちは体験します。
この体験をする人は幸いです。
何にもまさる幸いと私たちは信じます。
そして神さまが、あなたは一生懸命生きたね、
あなたは私に忠実に生きたね、と
涙をぬぐってくださいます。
そしてもうここには、
「死も、悲しみも、嘆きも、労苦もないよ」
「私があなたと共にいるよ」と神は語りかけてくださいます。
Aさんはこの神の御国に迎えられました。