クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

よろこんで歳をとる(4)

 よろこんで歳をとるために何をしたらよいのか、と考えて生きているわけではありません。歳をとることを否定的に考える人々が多い中、信仰者としてよろこんで歳をとりたいと願っています。そういう思いがあるからでしょうか、結果的に自分がしていることはよろこんで歳をとることにつながっていると思っています。

 よろこんで歳をとることにつながる4番目のことは、このブログを書くことです。できるだけ毎日書く努力をしています。内容的には信仰の証しです。福音に生きる歩みを証しをしたいと考えています。福音を生きるとはどういうことかを伝え、クリスチャンの方たちを励ますことができることを願っています。

 このブログは、簡単に製本ができるシステムが整っています。製本の仕方によって値段が違いますが、簡単に製本できます。製本したものを読んでみると、よくこれだけの文章を書けたなと思うと同時に、信仰に生きることの豊かさを思います。自分がイエス・キリストに生かされてきたことを知ることができます。私は自分の経験を語ることは苦手ですが、考えながら文章を書いて記録することは苦になりません。自分の信仰者の生涯を振り返ることにもつながり、読むのが楽しみです。

 これから老いた者としてどのような歩みをするのか分かりませんが、老いを生きる信仰の証しの文章を書いていきたいと思います。神さまから受けた恵みを一つ残らず書き出したいと思います。これは忘れっぽいのでそれは無理ですが、聖書を読んで思いめぐらし、み言葉に生かされる歩みを証ししていきます。

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よろこんで歳をとる(3)

 よろこんで歳をとるために私がしていることは、第一は聖書との対話、第二は日常生活を心地よいものにすることでした。そして第三は孫の成長を見ることです。

 牧師を引退することを決め、どこに住居を定めるか探していたとき、次女が双子を妊娠したことを聞き、それで奈良に住まいを定めました。娘夫婦は二人とも牧師なので、教会の用事があるときは、私たちが二人を見守ることとなります。娘は出産前は、一ヶ月半前から入院しました。それで妻は牧師館に住み、娘の夫と二人の子供たちの食事の世話をしました。そして今日に至るまで、娘家族に仕えることを優先してきました。一卵性だったので、双子の赤ちゃん、女の子でそっくりです。教会員の方たちも見分けることができないようです。

 自分の子供の成長はじっくり見ることをしませんでした。仕事優先でしたので、一緒に生活をしていましたが、日々の成長、成長の変化に気づくことはありませんでした。妻は育児が楽しかったと話してくれます。それで今回は、しっかりを見ていきたいと思っています。彼女たちの存在と成長を喜んでいくつもりです。

 小3の男の子の孫にプログラミングを教えて欲しいと娘に頼まれ、今週3回教えました。牧師になる前、私はプログラミングの仕事をしていました。来年度学校でもプログラミングを学ぶようなので、娘の親心に応えました。簡単なプログラムを作った後、自分なりにプログラムを修正して楽しんでいる様子を見ると、子どもはこんなことを面白がるんだと知らされます。楽しんでいる様子を見ると私も楽しくなります。人の喜びに仕える、わるくないです。

 

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よろこんで歳をとる(2)

 よろこんで歳をとる。この願いを可能にするためには、今の自分がどう喜んで歳をとることができるのかを考える必要があると思います。自分も変化していくので、どのようにして喜ぶのかも変わってくると思います。

 今の私は元気です。不自由なく日常生活を送ることができています。牧師の働きから引退したので、自由な時間が増えました。そこで今、料理に関心を持っています。自分の食べたいものを自分で作り、そして食べる。ここに喜びを見いだしています。料理をすることは、妻と二人の生活なので家事を分担するという意味もあります。スパイスカレーを作るのが楽しみで、妻もおいしいと言ってくれます。週に一回は作ります。

 家の中をきれいにしたいとの思いがあります。今は台所の調理台をきれいにしています。私が分担して食事を作った場合には食後、すべての食器を洗い、拭いて食器棚にしまいます。調理台にはなにも置きません。コンロにも鍋やフライパンなどを置きません。毎朝の食事は私が担当です。きれいにしていると気持ちがいいです。そのうち風呂場もきれいにしたいと思っています。

 日常生活を気持ちよく過ごす、それが喜んで歳をとることにつながると思っています。

  

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イエスの恵み(13)何の変哲もない現実が恵み

 今思うと、神学校を卒業したての信仰生活数年の新米の牧師の説教を教会員の方たちはよく聞いてくださったなと思います。もちろん、説教の準備は誠実に行いました。

 私は牧師として教会に遣わされました。そして教会には信仰に歩み、神さまを礼拝する人たちがいます。教会には信仰に生きようとしている人々がいる、何の変哲もない現実ですが、これが恵みであることを今思います。

 教会員には同じ人はいません。一人一人個性があるし、信仰の成長の度合いも様々で、熱心な人もいればそうでない人もいます。よく奉仕をする人もいれば、教会の奉仕に関心を示さない人もいます。牧師として私は一人一人の教会員に対して色々な思いを持ちます。その一人一人を養っていくのが羊飼いとしての牧師の務めです。養うべき羊を与えられている、それが恵みであることを今思います。牧会しているときは、恵みであるとは思いもしませんでした。

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
詩編133編1節

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六甲山YMCAの朝食 おいしかった

 

よろこんで歳をとる(1)

 二冊の本が突然私の目の前に現れました。いずれも老いに関する本です。『70歳のたしなみ』(板東眞理子著、小学館)、『わたしはよろこんで歳をとりたい』(イェルク・ツィンク著、こぐま社)です。前者は友人が送ってくれました。後者は教会の婦人会で読むからと妻が購入したものです。二冊の本が同時に目の前に現れる、そこには神さまの導きがあると思いました。

 後者の題名は、私の気持ちそのままです。この本を読む前に「よろこんで歳をとりたい」と考える私は今どう生きているのか、どう生きていきたいと考えているのか、意識化したいと思いました。その後、読むつもりです。後者はドイツの神学者が著者です。

 今どう生きているのか。それは「よろこんで歳をとる」ことを前提とすることです。
どのような事態が起きようとも、決してこの前提を捨てないこと、そのために聖書と対話して生きることです。聖書は読む喜びを与えてくれます。聖書はどんな時も語りかけてくれます。たとい病気になっても、聖書を読むことができるなら、聖書に聞く喜びに生きることができると信じます。

 土曜日にヨハネ福音書5章の最後の部分を読みました。イエス様はユダヤ人たちに「モーセを信じるなら私をも信じるはずだ。モーセは私について書いているからだ」とイエス様を信じようとしないユダヤ人を批判しました。

 モーセはイエス様について書いている?どんなことを書いているの?旧約聖書のどこにモーセはイエス様について書いているのか、と疑問を感じます。モーセ五書という言葉があり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書はモーセが書いたという伝承があります。私の記憶では、モーセは直接的にイエス様については書いていないと思います。

 モーセはイエス様について書いているとのイエス様の言葉を見過ごしにするのをやめました。モーセ五書には何が書かれていたのか、記憶を高速でたどって思いめぐらすと一つのことが分かりました。シナイ山の麓でイスラエルの民が金の子牛像を造った場面です。出エジプト記32章。怒りを燃やす神に対してモーセは言うのです。

モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」。

 山をおりたモーセは民に言うのです。

モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない」。 

 山に登り、モーセは主のもとに戻って言います。

ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。

 モーセは、神の前にイスラエルを執り成し、自分の命に代えても、民の罪の赦しを願いました。このモーセの姿は、イエス様を指し示していると言えるのではないか、と思いました。

 聖書が分かる、というのはうれしいものです。喜びです。聖書を読む喜びを味わいつつ、喜んで歳をとりたいと思いました。

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夏期学校 キャンプファイヤー

 

 

 

分かち合う努力

 昨日から奈良高畑教会の夏期学校に行ってきました。会場は六甲山YMCA。私は妻と一緒に参加しました。双子の赤ちゃんの見守りの役があります。年齢別に分級を行いました。私は分級は成人科に出席、妻は嬰児科に。野外活動の時などは見守りをしました。

 成人科は3回の集いを持ちました。ヨハネ福音書15章11~17節を学びました。「互いに愛し合いなさい」とイエス様が教えられた箇所です。一回目の時間は、自己紹介をし、それから各自聖書を読み、思いめぐらしました。二回目の時間は、思いめぐらしたことを分かち合い、語り合いました。三回目は、ヨハネのその箇所について書かれた若い人向けの文章を共に読み、分かち合いました。

 成人科は、昨年のメンバーとほぼ同じで、昨年も同様な分かち合いをしましたから、分かち合いも慣れてきました。

 そのプリントには、「愛する」とは何かは定義できない、と書かれていました。これについては著者と私は意見が違うなと思いました。そこで私は次のように発言しました。

私は「愛するとは何か」を自分なりに定義しています。聖書も、ヨハネの手紙一の中で、神を愛するとは、神の戒めを守ることであると書かれていて、神を愛するとは何かを明確に書いています。定義すれば、つまり愛するとはどういうことかを明確にすれば、愛する努力を行うことができます。定義しないと愛するとは何かがあいまいになり、愛する努力がしにくくなります。私にとって愛するとは、相手を大切にすること、相手の心を大切にすることです。

 さらにそのプリントには、「相手の存在を無条件に喜ぶこと」が大切だと書かれていました。プリントを読んでみた印象として、「相手の存在を無条件に喜ぶこと」が可能なことと書かれているように読めました。それでまた自分の思いを話しました。

私は相手の存在を無条件に喜ぶことはできません。私にできることは、無条件に喜ぶように努力することです。私と妻の間にこんなことがありました。・・・。夫婦が相手の存在を互いに受け入れ合う努力を積み重ねる中で、無条件に相手を喜ぶことができるようになるのではないでしょうか。相手の存在を無条件に喜べないところに罪があると聖書は教えているのではないかと私は思います。

 私は祈祷会でもそうですが、今は牧師という立場(教える立場)を離れているので、自分の思い、考えを分かち合う努力をするようにしています。子どもを教会学校に送っているお母さんが、この成人科に出席されているので、私の発言が伝道に役立てばと願いながら発言しました。

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YMCA内の池で。カヤックを楽しむ子供たち

 

人からの誉れを求めず

 今日読んだ聖書にこうありました。

互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
(ヨハネ福音書5章44節)

 この箇所の少し前でイエス様は「わたしは、人からの誉れは受けない」(41節)とはっきりと語られました。そしてユダヤ人たちに対して、唯一の神からの誉れを求めようとせず、人からの誉れを求める者は、わたしを信じることができない、と語られました。イエス様を真に信じる人は、人からの誉れを求めず、唯一の神からの誉れを求めるべきことを教えられました。

 人からの誉れは目に見えますし、耳で聞くことができます。だから誇らしいし、うれしくなります。しかし神からの誉れは、目に見えません。といって気長に、忍耐強く、終末の日に「よくやった、忠実な僕よ」と聞くだけで満足できるほど、私は気長で忍耐強い者ではありません。

 牧師として成功し、業績を上げた人が失敗を犯し教会を去るのを何度か見たことがあります。牧師として力を尽くし、神さまに仕えてよい働きをしたとき、人からの誉れを聞くと、心はそれに負けてしまうことがあるようです。

 私も自分の中に人からの誉れを喜ぶ心があることは知っています。そして神さまからの誉れはなかなか感じられないことも知っています。人からの誉れを欲する心が湧き上がってきたときは、それを抑える戦いをします。肉との戦い。しかし今日は聖書を読み、単純に、このような思いから清められたいと思いました。するとその時、「主われを愛す」を思い出しました。そこで賛美して、心の清めを祈りました。

わが君、イエスよ、われをきよめて
よき働きを なさしめたまえ
わが主イエス、わが主イエス、
わが主イエス、われを愛す

 肉との戦いは、終わりがありません。モグラたたきみたいに戦いが繰り返されます。自分の力では勝つことができません。肉の思いは湧いてくるからです。勝利は、恵みとして与えられます。だから祈りました。そして人からの誉れを求める思いからの解放の時を待ち望みます。