クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

よろこんで歳をとる(1)

 二冊の本が突然私の目の前に現れました。いずれも老いに関する本です。『70歳のたしなみ』(板東眞理子著、小学館)、『わたしはよろこんで歳をとりたい』(イェルク・ツィンク著、こぐま社)です。前者は友人が送ってくれました。後者は教会の婦人会で読むからと妻が購入したものです。二冊の本が同時に目の前に現れる、そこには神さまの導きがあると思いました。

 後者の題名は、私の気持ちそのままです。この本を読む前に「よろこんで歳をとりたい」と考える私は今どう生きているのか、どう生きていきたいと考えているのか、意識化したいと思いました。その後、読むつもりです。後者はドイツの神学者が著者です。

 今どう生きているのか。それは「よろこんで歳をとる」ことを前提とすることです。
どのような事態が起きようとも、決してこの前提を捨てないこと、そのために聖書と対話して生きることです。聖書は読む喜びを与えてくれます。聖書はどんな時も語りかけてくれます。たとい病気になっても、聖書を読むことができるなら、聖書に聞く喜びに生きることができると信じます。

 土曜日にヨハネ福音書5章の最後の部分を読みました。イエス様はユダヤ人たちに「モーセを信じるなら私をも信じるはずだ。モーセは私について書いているからだ」とイエス様を信じようとしないユダヤ人を批判しました。

 モーセはイエス様について書いている?どんなことを書いているの?旧約聖書のどこにモーセはイエス様について書いているのか、と疑問を感じます。モーセ五書という言葉があり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書はモーセが書いたという伝承があります。私の記憶では、モーセは直接的にイエス様については書いていないと思います。

 モーセはイエス様について書いているとのイエス様の言葉を見過ごしにするのをやめました。モーセ五書には何が書かれていたのか、記憶を高速でたどって思いめぐらすと一つのことが分かりました。シナイ山の麓でイスラエルの民が金の子牛像を造った場面です。出エジプト記32章。怒りを燃やす神に対してモーセは言うのです。

モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」。

 山をおりたモーセは民に言うのです。

モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない」。 

 山に登り、モーセは主のもとに戻って言います。

ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。

 モーセは、神の前にイスラエルを執り成し、自分の命に代えても、民の罪の赦しを願いました。このモーセの姿は、イエス様を指し示していると言えるのではないか、と思いました。

 聖書が分かる、というのはうれしいものです。喜びです。聖書を読む喜びを味わいつつ、喜んで歳をとりたいと思いました。

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