クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書に描かれている罪(7)サウルの罪

 サウルはイスラエルの初代の王です。罪を犯したために神により、王の地位を退けられました。預言者サムエルがサウルに語ります。

「主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主が語られる御言葉を聞きなさい。万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」。

 サウルはアマレクと戦い勝利を収めました。彼はアマレクの王アガグを生け捕りにし、アマレクの民をことごとく剣にかけて滅ぼしました。またアマレクの所有していた最上の羊と牛は惜しんで滅ぼし尽くさなかったのです。「一切、滅ぼし尽くせ。容赦してはならない」の命令に背いたのです。そして神の言葉がサムエルに臨みました。

「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」。

 アマレクの王を殺さず生け捕りにしたこと、滅ぼし尽くせと言われていたのに最上の羊と牛はとっておいたこと、このことのゆえに神の命令を果たさなかった咎められ、王位から退けられることとなりました。

 サウルは、神さまから個人的に与えられた命令に背きました。背いたというよりは徹底して従うことをしなかったのです。これがサウルの罪でした。神さまが「10」しなさいといわれたら、「10」するのです。「9」行ったからいいのではないか、との言い訳は通用しません。サウルは「私は罪を犯しました」と告白しましたが、王の地位を回復することはできませんでした。

 サウルの罪は神さまの命令に徹底して従わなかったことです。命令に従わない、それは神さまをないがしろにすることです。

 

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禰宜(ねぎ)道 春日大社の宮司の通った道の呼び名。私の散歩道

 

新しい歌を歌え

イエス様は、次のように語られました。

「わたしは命のパンである」(6:35,48)。
「わたしは世の光である」(8:12)。
「わたしは良い羊飼いである」(10:11,14)
「わたしは復活であり、命である」(11:25)
「わたしは道であり真理であり、命である」(14:8)。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)。 

 この言葉を思いめぐらし、歌を作りました。

われ羊 羊飼いなる イエスには
地獄の果てまで 従う覚悟  

祈祷室 我は復活 命なり
イエスの言葉 刻まれ 響く

御言葉が 真理と知りて わが心
満ちる平安 あふれる涙

われはある 語るイエスは 御自分が
何ものなのか 明らかにする

 

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なんてんの実 黄色と赤

 

 

 

聖書に描かれている罪(6)イスラエルの民の罪(偶像礼拝)

主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。

 ここにはイスラエルの罪が描かれています。モーセはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出しました。モーセの後継者ヨシュアの指導の下、イスラエルの民は神が与えてくださった約束の土地に入り、そこに住みました。ヨシュアが亡くなり、やがて新しい世代が登場します。すると人々は、バアルを礼拝し、先祖をエジプトから導き出した「主を捨てた」というのです。十戒の第一の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を破ったのです。それがここで「主を捨てた」と書かれています。主を捨てるという罪をイスラエルの民は犯したのです。

 世代が交代したとき、信仰が受け継がれなかったのです。イスラエルの民は、自分たちの先祖をエジプトから導き出した神のことは聞いて知っていたと思いますが、信じることなく、周囲の民が信じる神を信じ、偶像礼拝をしたのです。

 人間は放っておくとどういうわけか偶像礼拝をしてしまいます。イスラエルの民がその実例です。人はなぜ偶像礼拝になびいてしまうのでしょうか。それは偶像が何も人間に要求しないからだと思います。人は偶像に願いの実現を求めるだけでよいのです。願いの実現のためにはいけにえ、供え物を捧げます。そして願いの実現を求めるのです。奈良には神社仏閣が多いですが、そこに訪れる人は手を合わせ、願いごとをしています。自分の願いが聞き届けられることを求めているのです。

 しかし聖書の神は、神を信じる者との交わりを求める神です。神を信じる者は神との交わり(関わり)に生きるのです。神を信じるとは、神を愛することだと聖書は語ります。神に愛され、神を愛して生きるのが聖書が伝える信仰です。不謹慎な言い方をすれば、これは面倒くさいのです。神に向かって願いごとだけをすればいい、それは人間にとって分かりやすく、都合がよいのです。
 クリスチャンも、神との交わりを重んじなければ、神信仰が願いごとの実現を求めることとなり、偶像礼拝に陥ってしまう危険はあります。

 主を捨てたイスラエルの民に対して神は怒られます。イスラエルの民は周辺の民の支配を受け苦しい思いをします。苦しむ彼らを神は憐れみ、指導者(士師)を立て外国の支配からイスラエルの民を救い出します。しかしまた何十年かするとまた偶像礼拝を行います。このような繰り返しが士師記に書かれています。

 罪とは偶像礼拝をすること。まことの神以外のものを礼拝すること。クリスチャンも自分に都合のよい神をつくり、これを礼拝しかねません。神との交わりを重んじなければ、自分が造った神を崇める偶像礼拝に陥ります。

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(コリント一1:9) 

わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネ一1:3)

 

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蝋梅 そこはかとない香りが漂っています

 

妻は宇宙人?

 先週末、妻と散歩し家から奈良駅まで歩きました。50分くらいかかったでしょうか。駅の近くにはクラシック音楽を聴かせる喫茶店があり、コーヒーを飲みました。ここで音楽を聴くのは楽しみなんです。

 私という人間と妻という人間は相互に理解できないほどに違いがあることがまたわかりました。

 以前こんなことがありました。忘れられない出来事です。御殿場に住んでいた頃のことです。山中湖に車で行きました。御殿場から峠を越えると山中湖村に入ります。村といってもまだ山の中です。しばらく走ると目の前の道を鳥が横断したのです。一瞬のことでした。私も妻も同時に「アッ」と叫びました。「あれは雉だ」と私。妻も「雉ね」。「どう見てもあれは雉の形をしていた」と僕。「どう見てもあの色は雉ね」と妻。僕は輪郭を見て、妻は色の塊を見て、共に雉を見たと判断したのです。

 私は人の話したことをそのまま繰り返して話すことは苦手です。私の頭は人から聞いた話をテープレコーダーに録音してそれを再生するように話すことはできません。ですから、こんな話だったと要約してしまいます。妻は話を聞いたその場面を頭の中で思い出し、その情景を思い浮かべ、ビデオで再生するように聞いた話を話します。私の次女は子どもの時、教会学校の礼拝で説教を聞いた時、テレビを見ているみたいだったと言います。聞いた話がイメージとなって記憶されるようです。妻と同じです。

 それで喫茶店で音楽を聴いているとき、どんな風に聞こえるのと妻に聞きました。すると「音のシャワーを浴びるように聞こえる」と言うのです。メロディーを聴くという感覚はないようです。「知っている曲ならメロディーを聞くことができるけど、これは知らない曲だから」と妻。私はメロディーを追って聞きます。いくつもの楽器のメロディーを同時に追うことはむずかしいですが音の流れを聞きます。音のシャワーを浴びるようだという妻の話を私は理解できません。

 同じ人間なのに、見たり聞いたり感じたりすることは同じなのに、全く違う認識の仕方をしていていることをあらためて知りました。妻は宇宙人なのでしょうか。それとも私が・・・。

 

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散歩道

 

喜んで死ぬということ

 以下の文章は、奈良高畑教会が年一回クリスマスの時に発行する機関誌『羊群』に寄稿した文章です。

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 私は幼い頃に、人は死ぬものであることを知りました。記憶は定かではありませんが、祖母が亡くなったのがきっかけだと思います。そして死の恐怖を覚えました。死の恐怖の前に自分はなすすべもなく、死を考えないようにしました。大学紛争を経験した後、生きることの空しさも感じました。いつかは死ぬと思うと何をしても空しく思えました。色々な本を読み、死の恐怖と空しさを克服する道を探りましたが、解決はどこにもありませんでした。

 社会人となりました。ある時会社の先輩が「お前、俺と一緒に見合いをしないか」と私を誘ったのです。びっくりしましたが断りませんでした。そして相手を紹介してくれたのがクリスチャンのYさんでした。先輩、そして私はそれぞれ女性を紹介されました。私はまだ若かったので結婚する気持ちにはなれませんでした。このYさんがある時私を伝道礼拝に誘って下さいました。せっかく誘ってくださったので私は行きました。伝道説教の内容はひとことで言えば「信じれば救われる」とのことで、信じて救われるならこんな楽なことはないと私は思い、こういう話しは眉唾ものと自分に言い聞かせました。礼拝への招きを受けましたが行く気持ちにはなれませんでした。ところがその日の夜、教会が火事になったのです。幸いぼやですみました。でも自分が行ったその日に教会が火事になるなんて、何か縁があるのかも知れないと考え礼拝に行くようになりました。紆余曲折はありましたが洗礼を受け、永遠の命の希望を知りました。死を恐れる必要のないことを知りました。とりあえず安心です。でもまだ死の恐怖から解放されたわけではありませんでした。

 牧師となり、聖書に親しみ、死を越える希望についても聖書から学びました。そして葬儀が起きれば、死を越える希望を語りました。葬儀の説教は、遺族の方や参列者に向けて語られますが、葬儀説教は自分に向けての説教でもありました。何度葬儀説教をしたでしょうか。数えたことはありませんが、その都度、死を越える希望を自分に語りました。

 ある時、何が真実なのか、と思ったのです。「死んだらおしまい、死んだら後は何もない、死んだら自分は無になる。自分は世界から見捨てられる」と考えて死を恐れたわけですが、これは真実なのか。それとも死を越える希望を語り信仰者には永遠の命が与えられると告げる聖書の言葉が真実なのか。どっちが本当なのだろうと考え、私は聖書が告げることを真実とすることにしました。その時、死の恐れが私の心から離れていきました。

 70歳で牧師を引退しました。妻と二人老夫婦の生活が始まりました。私は自分が死ぬべき存在であることをいつも意識して生きてきました。メメントモリ(汝死すべきことを忘れるな)と言われずとも意識してきました。今も変わりはありません。自分が死ぬことを意識しながら生きているのです。それは言い換えると生きることを大切に考えることにつながります。そんな私に神さまは福音を伝えるという尊い使命を与えてくださり、まことに感謝です。

 こうして歳をとってくると死が現実のものとして迫ってくるようになります。自分はいつ死んでもおかしくないと思うようになりました。そして心構えというか、心の準備は必要と考えるようになりました。そこで「よろこんで死ぬ」という課題と取り組むことにしました。それは恐れを私に与えた「死」に一矢報いたいとの思いが現れているのかもしれません。

 牧師を引退した年、NHKラジオで『ルターと宗教改革』という題で13回の放送がありました。テキストを購入し、放送を聞きながらテキストも読みました。そこにはルターと親鸞が自分の死についてどのような思いを持っていたのかが書かれていました。その本から引用します。

 「また人間であれば、どうしても死を喜べない心があります。仏の慈悲によって極楽浄土、間違いなしと言われても、あるいは神の恵みによって天国の救いが用意されていると確信しても、それでも喜べない心があるものです」と著者は書きます。つづいて親鸞について書きます。

「弟子の唯円が念仏しても楽しいはずの浄土に行きたくないのはなぜでしょうかと尋ねると親鸞はこう答えました。『・・・親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり、よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて(だからこそ仏の他力が働いて)いよいよ往生は一定おもひたまふなり(間違いなし)』」。

 弟子の唯円が極楽浄土に行くと分かっていても死ぬことを喜べないのはなぜかと親鸞に尋ねたわけですが、「おまえもか、わたしも同じや」と親鸞は答えたということです。

 ルターは「(私は)いつ死ぬかよく知っている。どこへ行くかよく知っている。(つまり天国に行くことを知っている、しかし)私が必ずしも喜んでいないことに驚いている」。

 私はこれを読んでほっとしたのです。やっぱりそうなのかと思いました。私だけでなく、ルターも、そして宗旨は違いますが来世の希望を説く親鸞もまたそうなのだと知ってほっとしました。しばらくしてうぬぼれるわけではありませんが、喜んで死にたいと願うようになりました。

 親鸞やルターが死んだ後の自分の行く先が喜ばしいところなのに喜べないと語るのは、私の推測では、この世に未練があるのです。未練があるといってもやり残したことがあるという意味ではありません。この世でそれなりの年数生きるとこの世界に愛着を感じるのです。その愛着の中には、家族・友人・大切な人とまだ一緒にいたいとの愛着もあります。愛着を感じるこの世界に別れを告げるのは、さびしいというか、後ろ髪を引かれるというか、未練があるのです。可能なら、あともう少しこの世で生きていきたいと思う心があるのです。この世界よりも素晴らしいところへ行くのに喜べないのは、この世界に愛着があるからだと私は考えています。ルターや親鸞については推測ですが、わたし自身はそうです。

 このことを思うとき、私は信仰の父アブラハムを思い出します。彼は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」(創世記十二章一節)と神さまに言われて「行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ人への手紙十一章八節)。住み慣れた地を離れて、慣れ親しんだ人々と別れて、行き先も知らずに出発しました。アブラハムには、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」との約束が与えられていました。彼はこの約束を喜び、出発したのです。このアブラハムを模範とするなら、私はよろこんで死に、神の国に向かうことができるのではないか、と思うのです。私たちは神の国に迎えられるとの約束が与えられています。
 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙1章21節で「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と語り、続けて「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」と語ります。パウロは今すぐにでも死んでキリストと共にいたいと熱望していました。彼にとって死ぬことは益であり、喜びです。死ぬことを喜びとする人がいたのです。私にとっては憧れです。よろこんで死にたいとの願いは信仰的な願いであることを教えられます。

 それで私はどのように死を迎えようとしているのか、どのような備えをしているのかということですが、二つあります。一つは神の国のイメージを持つということです。アブラハムは天の故郷を待望していたとヘブライ人への手紙に書かれています。
 ヨハネ黙示録には、神の幕屋が人のあいだにあって、神は人と共に住み、とあります。神の国を語る聖書の箇所に親しみ、思いめぐらす、これはすてきな楽しみであり喜びです。

 今ひとつは、イエス様の語りかけを心で聞くということです。私が説教奉仕に行く教会には講壇のわきに祈祷室があります。講壇に上がるにはその祈祷室を通るのですが、祈祷室には一つの聖句が掲げられているのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネによる福音書十一章二十六節)。祈祷室は狭い部屋で一種の密室です。この部屋に入りこの聖句を読むとき、イエス様が私に語りかけておられるような気がするのです。信仰に生きるとはイエス様との交わりに生きることですから、希望を語るイエス様の言葉を心で聞いていくことが大切と思っています。そうすることがよろこんで死ぬ喜びの源泉になるのではと思っています。
 ルカによる福音書によると、イエス様は最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られました。そこで私もそのように祈りたいと願っています。そのために次のような祈りを私はしています。「私が召されるとき、『よくやった、私のもとに来なさい』とのみ声を聞かせてください」と。まだ元気なときに聞こえてきたらどうしようか、と思う心もあります。

 

 

 

僕には才能がある?

 『羊と鋼の森』(宮下奈都)という小説があります。ピアノの調律師を主人公にした小説であることは知っていました。先日、その映画を見ました。映画の中で一つ心に残る言葉がありました。調律師の新米の主人公に対して先輩の調律師が言うのです。

「才能っていうのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものに似ている何か。おれはそう思うことにしているよ」。 

  かって私は思いました。自分より聖書をよく知っている信徒がいる。自分より深く考えることのできる長老がいる。自分よりすばらしい説教をする牧師がいる。自分より神学について深い理解を持ち、それを適切に話すことのできる牧師がいる。自分の足りなさばかり気になっていた時期がありました。

 神さまは、私という人間をご存じの上で牧師に召されたと考え、ありのままの自分を私は受け入れました。そんな私に映画で聞いた「才能」についての言葉は新鮮に響きました。「好き」「執念」「闘志」。

 原作を読みたくなり、今読んでいます。そしてもう一つ心に響く言葉が書かれていました。ある出来事があり、それに刺激されて調律師の先輩が主人公に言うのです。

「あああ、俺、血がにじむような努力ってやつをしてみたいよ。そう思わないか」。

 こういう言葉を口から出させる出来事というのがあるんですね。すごいと思いました。この言葉を読んで思いだしたのはヘブル書の言葉です。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブル12:4)。

 もう一つ思ったことは、血がにじむような努力かどうかは分かりませんが、私は毎日ブログを書く努力はしています。いつ書く種が尽きるのかと不安に思いながらも福音の証人としてブログに証しの文章を書いています。続けて書くために私の場合は汗が血のしたたり落ちるような祈りが必要なのかもしれません。福音を伝えることが「好き」、何とかして伝えたいとの「執念」、そして「闘志」はあります。福音を伝える才能が私にはあるのかな?

 

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新薬師寺の土塀の上の瓦 散歩道

 

聖書が描く罪(5)ダビデの罪

 サムエル記下12章7~10節にこう書かれています。

 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ』」。

 イスラエルの王ダビデがバテシバという人妻と姦淫を行い、その結果、彼女は子を宿しました。この罪を隠そうとダビデは策を弄しますがうまく行かず、結局彼女の夫ウリヤを戦場で死なすように仕向けました。そしてウリヤは死にました。ダビデは自分の罪は隠しおおせそうに見えましたが、家臣のナタンがダビデの罪を告発しました。

 ダビデの罪は姦淫と殺人を犯したことにありますが、神さまはダビデに対して「あなたは主の言葉を侮った」と告げます。ダビデは主の言葉を侮り、主の意に背くことをしました。ダビデは神ご自身を侮ったのです。

 神を侮り、神の言葉を侮ったダビデ。なぜそうなったのでしょうか。その理由は、彼が王という地位につき、いつの間にか高慢になっていたからです。最高の地位にある者は何でも自分の思い通りにしたいと考え、そして思い通りにできますので、思い通りにします。そこに罪への落とし穴があります。

 ダビデは高慢になり、行くところまで行ってしまいました。策を弄して失敗したとき、ダビデは自分が何をしたのか気がつき、罪をなぜ悔い改めることができなかったのかと思います。ダビデは「我に返る」(ルカ15:17)ことができず、罪を重ね、殺人の罪を犯してしまいました。

 思い上がったダビデはいわば「罪人モード」に入ってしまい、罪を隠蔽しようとし、それがうまく行かなくなると、殺人の罪を犯しました。そして自分が間違ったことをしているとは気づかなかったのです。

  ダビデの罪は、高慢の罪、神を侮り、神の言葉を侮り、神の御心に背く罪。姦淫、殺人。

 そこで思います。人が神の前に生きる自分を保つためにはどうしたらよいのか。それは日々聖書を読む、そこに尽きると思いました。私たちは「罪人モード」に入り、我を失うことがないようにするためには、聖書に日々親しむことの大切さを教えられます。

 

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銀行の外壁の柱にある石の彫刻