クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


↑ 里山の水田 祈祷会が終わって教会員のMさんの実家近くの田んぼへ。妻と母はMさんと一緒に枝豆の苗を植えた。



 午前中は松任地域集会。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」を学ぶ。

「人はパンだけで生きるのではない。そんなこと当たり前や。俺は日本人だぞ。米を食べて生きるぞ。うどんを食べて生きるぞ。そばも食べて生きるぞ」。

 と冗談を言いながら、「パンは何を意味していると思いますか」と話し合いを始める。終わって昼食を共にして帰宅。すぐにラジオ金沢に出演するため放送局へ。ラジオ身の上相談に出演。


 昔、某有名都立高校の入学試験で不合格となり、私立の高校に行くことになった。その時、父は僕を慰めるつもりで、

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

という言葉を語ってくれた。大きなものに従うよりも、たとえ小さくてもかしらになったほうがよいことのたとえ。優秀な人の集まる学校へ行って成績順位が後ろになるよりも、そうでない学校で成績順位が上になった方がよい、と私立高校へ行くことについて励ましてくれたのである。


 かくして僕は私立高校へ行って、幸いにというか努力が実ってというか、成績はトップクラスになり、某有名大学に入学した。そこはまさに優秀な学生の集まる大学で、そこで僕は優秀な学生に囲まれて劣等感に陥ってしまったのである。大学で「牛後」になってしまったのだ(笑)。


なんのこっちゃ 底抜けに 最悪(笑)。


 そして10年間サラリーマンをし、それから牧師になった。サラリーマン生活の最後の4年は夜間の神学校へ行った。夜間の神学校では、授業を受けるだけで精一杯。昼間は仕事。だから神学の学びは十分にできていない。牧師になり牧師会で他の牧師たちと顔を合わせる。神学知識、聖書知識もも不十分でまたまた劣等感。

わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し(イザヤ43:4)

に出会って、神様が「あなたは価高く」とおっしゃってくださるのだから、劣等感を持つ必要はないと知って、劣等感から自由になった。以前なら劣等感を抱くような時も抱かないで済むようになった。ところが、劣等感がむくむくっとわいてきた、つい先日。

 イザヤ書による劣等感からの解放は不十分だった。今僕がなすべきことは、神が僕に与えてくださった賜物を数え、感謝すること。あたかも神が僕に賜物を何も与えないかのように考え劣等感に陥るのは、罪深い反応である。悪魔の罠にはまってしまった。

 アダムとエバはエデンの園で多くの木から実を食べることができた。彼らは恵みに囲まれていたのである。神はたった一本の木の実だけは食べてはいけないと警告した。多くの恵みに囲まれていても、たった一つの不足に目を留めて、大きな不満を抱くのは悪魔の罠である。アダムとエバは、悪魔の罠に捕らわれ、食べることを禁じられた木の実を食べてしまった。

 神から与えられた賜物を数え、心から感謝することによって、自分の足りない点を認めつつも劣等感に陥らない自由を得ることができる。今そう思う。