劣等感を感じ、悩んだのは学生時代でした。学生の時、大学紛争が起きました。1970年前後のことです。学生運動の嵐の中に巻き込まれた学生生活でした。学生は授業を放棄し、建物を占拠し、全学ストライキという事態になりました。
大学当局と学生の代表の間で団体交渉が行われましたし、私は工学部の学科に学んでいましたが、この学科でも教授と学生の間で団交が開かれました。級友の学生が教授を追求する論法の鋭さに驚きました。
なんて頭がいいんだろう!
頭の回転が遅く、深く考えることができない自分が情けなく劣等感がしっかりと私の中に根づきました。
サラリーマン生活を10年ほどしてから牧師になりましたが、有能な牧師の姿を見てまたまた劣等感に悩みました。劣等感という感情に私は強く悩まされました。私の場合は、妬みは持ちませんでした。人を妬み、人を攻撃する方向には向かわず、内にこもる方向に向かったと言えます。私は自分の殻に閉じこもるようになりました。自分のことを話すことは少なくなりました。性格も変わったように思います。
劣等感を持ち続けることは嫌でしたから何とかしたいと思い続けました。聖書を読む中で、神は私たち一人一人を愛しておられることが支えとなりました。
欠点や劣った点がある自分、
これ以外に自分はないし、この自分を
神は愛してくださっている、
神が私を愛しておられるなら、どうして
自分で自分を情けなく思う必要があるのか。
そう考えて自分を受け入れるようにしました。
「あなたは自分が好きですか」という質問があります。「嫌いです」と答える人が多いらしいです。嫌いですという返事はしないですみますが、なかなか「好きです」とは言えないものです。劣等感は何かがあると自己嫌悪となって辛い気持ちになりますが、段々と自分を受け入れることができるようになりました。ここまでは昔に書いた文章です。
信仰者は神に愛される神の子です。神の子というアイデンティティーを持ちます。自分に劣った点はあるかもしれませんが、神の子というアイデンティティーを喜びます。
また信仰者といえども罪を犯します。そんな自分を情けなく思う必要はありません。なぜなら、イエス様を信じる者は聖霊によって新しく生まれ、神の子としての歩みを始めることができるからです。罪を赦され、義とされ、聖なる者とされました。そして聖なる者としての歩みを積み重ねていきます。劣等感を感じる必要は全くありません。自分の情けなさに目を向けるのではなく、神によって新しく生まれた信仰者としての自分の可能性を喜びます。
神の子としてのアイデンティティー、新しく生まれ変わって生きることができる、イエスの恵みです。自分のアイデンティティーをしっかり持つとき、私たちは自分を受け入れることができるようになります。また神さまに造られた自分の個性を喜ぶことができるようになります。主イエスによる救いの結果です。イエスの恵みです。