クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖霊の導きを求めて(15)

 聖霊を受ける、聖霊に満たされる、聖霊が下る、聖霊のバプテスマを受ける、などの表現が聖書に出てきます。これらが何を意味しているのか、私は聖書を十分には理解していませんでした。しかし聖霊が下ればあなたがたは力を受けて、地の果てに至るまで私の証人となるとのイエス様のお約束が自分の身に実現して欲しいと切に願っていました。

 信仰者には聖霊がその人のうちに住んでおられます。聖霊により信仰者は新しく生まれた存在となり、信仰者として歩みをします。それに対して、上に書いた聖霊に関する表現は、信仰者に奉仕のための力を与えると理解するのがいいようです。力を受けてイエスの証人として福音を宣べ伝えるのです。そうなりたいと私は思いました。

 そのように聖霊が下り、力を受けるために、私たちに何かすべき条件があるのでしょうか。聖霊に関する本には、いくつかのことが書かれています。たとえば「告白」「放棄」「明け渡し」「従順」「信仰」などが教えられます。

  • (罪の告白)

 クリスチャンといえども罪を犯します。だから赦しを求めて神さまに告白することは大切です。自分の心を探り、罪に気づかせてくださいとの祈りも必要です。忘れている罪があり、罪を犯していると認めないこともあります。自分の罪をあいまいにするのです。聖霊は私たちに罪を自覚させる働きをしますから、罪をあいまいにする人に聖霊は下らないと考えるのが自然です。

  • (罪の放棄)

 聖霊による力を受けるためには、告白したその罪を放棄し、同じ罪を繰り返さないと決意することが大切です。このような決意をしない人に聖霊が力を与えられるでしょうか。決意をあいまいにする人に聖霊が下るとは思えません。

  • (明け渡し)

 次は明け渡しです。明け渡しとは自分の人生を神さまに献げることです。神さまに仕えることに自分の人生の目的を絞るのです。神さまを信じますが、自分の人生は自分の人生として楽しみたいというのでは、聖霊の力を受ければ困ったことになります。人生を楽しみたいと思っているのに、神さまに仕える方に引っ張られてしまうのは困った事態です。神と富とに兼ね仕えることはできないとイエス様は教えられました。神さまへの奉仕と自分の人生の楽しみの追求は両立しません。自分の人生を神さまに献げ、神さまに明け渡すのです。

  • (従順)

 そして神さまに従順に生きるのです。

  • (信仰)

 そして聖霊が下ると信じるのです。このような信仰者に聖霊が下ることを期待してよいし、そのような信仰者を目指して、聖霊が下るのを祈り待つのです。

 聖霊に関する本には、以上のようなことが書かれており、これに従おうと私は努力しました。『神を求めて』と題をつけたノートがあります。そこには、日々の歩みにおけるそのような努力と祈りが書かれています。このような努力が一年ほど続きました。このノートは、私の「あがき」が書かれています。誰にも見せられないです。

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