クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.5.18)
聖書 コリント一15:1〜11 受け入れた福音

 昨日はよい天気でしたね。元町教会の登山同好会で高清水山に行ってきました。行きの車の中ではダジャレを連発しながら、山に入ってからは、新緑の木々を見ながら、さわやかな空気を吸いながら、一日を楽しみました。


 山道を歩きながら、私は下ばかり見ていました。転ばないように注意していたわけではありません。ましてお金が落ちていないか、見ていたわけでもありません。


 私はスミレが咲いていないか、注意していたのです。スミレが咲いていると写真を撮るものですから、歩くペースが遅くなり、他の人にちょっと迷惑をかけてしまったと思っています。がスミレの写真は撮りたいんですね。7種類のスミレを見ることができました。心地よい疲労を覚えながらの楽しい一日でした。


さて聖書です。


1.私たちは、聖書が告げるから信じる

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節)。

 パウロは、自分が聞いたことを、あなたがたに伝えたのだと述べています。パウロは自分が聞いたことを信じ、それをコリント教会の人々に伝えたのです。聞いたことが本当かどうか確かめることができるとは限らないことがあります。それなのに聞いたことを信じる、これは愚かに見えます。でもそうやってキリスト教は伝えられてきたのです。


 ある時から、伝えられてきたことがまとめられて聖書となりました。私たちはその聖書を読み、あるいは、聖書の説き明かしを聞いて、信仰を持ちます。クリスチャンは聖書に書かれていることが、本当のことであると認め、疑わないのです。


2.罪を犯す私たちが招く結果 


パウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語りつつ、最初に語るのは、キリストの死です。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」(3節)

と語ります。


キリストは私たちの罪のために死んだというのです。これはどういうことなのでしょうか。


 聖書は罪を犯す人間に対する神の裁きを語っています。

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:26)。

 人は必ず死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっていると告げて、最後の審判のあることを告げています。

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(コリント二5:10)。

 その結果はどうなるのでしょうか。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:31〜32)。

 神の裁きにより有罪の判決を受ける者と受けない者がいるのです。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(コロサイ1:21)。

「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェソ2:3)。

 私たちは皆、神の怒りを受けるべき者であると聖書は告げているのです。


 私たちは皆罪を犯しているために、有罪の判決を受けなければならないということです。

「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:15)。

私たちは、聖書がこのように告げているのを見過ごしにすることはできません。こういう部分に目をつぶることはできません。目をつぶるとは、聖書を聖書でなくしてしまうことになります。聖書が告げることはすべて真理だと私たちは信じます。聖書のある部分は、その通りだと信じるが、ある部分はわからないし、信じないという態度はとりません。それは聖書を信じることにはならないからです。

「あなたが語る10の内、9は信じるが、あとの一つは信じない」といわれたら、どう思いますか。

その人はあなたを信じているといえるでしょうか。あなたの語ることを信頼しているといえるでしょうか。私たちは、聖書に書かれていることは何であれ、真実だと信じる信仰に立つ者です。

「この世には立派な人がいるではないか。その人も有罪判決を受けるのか」

という質問があるでしょう。どう思いますか。


 ある人が死んで、自分は天国に行くといって、天国の門に着きました。すると中から、

「あなたが天国に入れる理由を言ってみよ」

という声が聞こえました。その人は、

「わたしは善良な人間として生きてきました」

と答えるかもしれません。

「本当に善良な人間として生きてきたのか」

と心の内を見抜くような目で天国の番人に問われたら、だんだん自信がなくなるでしょう。

決定的な問いは、

「あなたは神を無視して生きてきたのではないか」

という問いです。
神を無視する、これほど大きな罪はありません。神は人間を造られたからです。悪いことはしなくても親を全く無視する人がいたら、これは親不孝です。天国は神の国です。神を無視して生涯を過ごした人が入れる道理はありません。


 地獄の沙汰も金次第、という言葉があります。地獄を甘く見てはいけない、と警告する人々がいますね。


3.私たちのためにキリストの救いを受け取ろう

「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(テサロニケ1:10)。

 キリストは、どのようにして、私たちを救ってくださるのでしょうか。十字架で死なれたことによってです。十字架刑は、重い犯罪を犯した者に対する処刑方法です。聖書は、キリストが私たちの身代わりに、十字架で神の怒りを受けられた、と伝えています。キリストは私たちの罪をその身に負われたのです。そして神の怒りをその身に受けられたのです。


 十字架の上で、

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ばれました。

イエス・キリストは、神の怒りを受け、神に見捨てられたのです。それは、私たちの罪のための死であり、私たちが神の怒りから救われるためでした。

 私は若い時、かなりたばこを吸っていました。朝起きるといつも咳き込んでいました。仕事で研修会に行っている時、咳き込み、口にハンカチを当てました。そこに血が少しついていました。私はびっくりしました。たばこを吸って体を痛めつけている神の裁きがきた、と思いました。絶望感に襲われました。その時、イエス・キリストが自分のために十字架に着いたことを悟り、洗礼を受けました。

 取り返しのつかない大変なことをしてしまったという感覚は誰にでもあるのではないでしょうか。聖書が告げる救いとは、罪からの救いです。罪とは、神を無視して生きること、神を無視する結果、神に背くことです。


 救いとは、罪からの救い、最後の審判を受け、永遠に神から見捨てられることからの救いです。これが根本的で一番大切な救いです。この救いを感謝をもって神様から受け取りましょう。


祈り

天の父、イエス・キリストは私たちを永遠の滅びから救い出してくださったことを感謝します。
多くの人は、死ねば、天国に行けると信じています。
神を畏れることなく、自分の思いで生きている人が多いために、この世には悪がなくなりません。
苦しむ人たちがたくさんいます。
神様、あなたを畏れることを教えてください。
謙遜に、あなたの前に罪を悟り、イエス様の救いを受け取らせてください。
あなたの救いを感謝します。
私たちは希望を持って人生を送り、人生を終えることができることを感謝します。
イエス・キリストのみ名より祈ります。